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あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

「現代アートはわからない」といってしまう理由


とってもフォーブな現代アート

 現代アートの湧泉は、一般にアンリ・マティスさんに代表されるフォーヴィスムか、あるいはマルセル・デュシャンさんの『泉』であるとされています。

 

アンリ・マティス Description Les toits de Collioure

 フォーヴィスムは画面を原色のやや広い面で構成した絵画の一派をあらわす言葉で、日本語では野獣派と訳されます。

 "野獣"と名付けられはしましたが、野獣派の描くものには形、ものの輪郭がありますし、なにが描かれているのか認識できます。

 

 しかしコンセプチュアルアートやミニマルアートなど、"現代アート"とひと括りにされるそれには、なにを描いているのかさっぱり"わからない"ものがあります。

 

マルセル・デュシャン  泉 Fountain

 デュシャンさんの『泉』はなにを描いているのか、そこには逆さにされた便器が置かれているということは疑いようなく一目瞭然なのですが、そこにどのような"美"を見出したらよいのか?どこにも"美"が見当たらず、そこにはどのようなメッセージが隠されているのか?(文脈・歴史・慣習などを知らなければ)容易にはなにを"意味"しているのかを汲み取れません。水洗なんですけれどもねぇ。

 

 根っこに作者や鑑賞者の助平心や変態性が存分に含有されていようと、現代アート以前の芸術にはすくなからず"意味"があり、"美"が求められていました。

 "意味"や"美"がないものは容赦なく打ち捨てられ時代を越えることができませんでしたが、『泉』は既存の物にサイン(偽名)して出品することで芸術を、アートを問うたのでした。

 

 この大河の一滴が、いわゆる現代アート以前・以後とを一擲することとなりました。

 「"意味"を揺さぶり"美"をも求めない、なんとなれば"醜さ"であっても追求する。むしろそれがために評価される作品、後世にまで残るコンセプトになる」という水洗レバーがひねられて、現代アートの潮流が押し寄せてきました。

汚知りあいになりたい。

 その勢い、その洗浄力ときたら、ときに現代アート以前のアートを水に流してしまうのではないかと思われるほどの水量をたたえることさえあります。

 まだ節水トイレにしていないからきっと13Lタンクなんでしょうね。

 

 "意味"や"美"を求めない古代人の製作場面、製作の起源の生々しさ、破壊も辞さない野性味あふれる荒々しさ、ワイルドなエグみ。

 こういった点で現代アートはフォーヴィスムよりもよっぽどフォーヴですし、フォーヴィスムを継ぐものであり、ポスト・フォーヴィスムとも言われうるものなのではないでしょうか。

 

現代アートのビフォーアフター

 現代アート以前の芸術では、絵画・音楽(楽譜)・彫刻・陶器から寓意・物語・教訓・歴史、イコンや精神性といった"意味"を読み取りました。

フィルター芸術

 また芸術・アートはそのように"見る"ものでした。

 おそらく汲み取り式だったんでしょうねぇ。水洗式が普及する前のことですから。

 

 いわゆる現代アート以前、日本にアートシーンという言葉が輸入される前の芸術は今よりも形に縛られた"意味"を多く含んでいましたし、"意味"がより明確な形をなして明示されていました。

 

 また、高尚でないものは高尚を装わなければ異端視されました。

 芸術家は職人で、創作物は主に工房作品だった頃、芸術はそれ単体でなるものではなく、主役でもなく、"装飾"が主な役割でした。

 たとえそれが神仏像であっても、それは容れ物であり、崇拝されているのはそこに仮託されたなにかに対してのものでした。

 助平心は神話に仮託しなければ、感情に神聖の"意味"を纏わせなければ世にあらわしてはならないものでした。

 

 それが時代を経るごとに聖性は剥ぎ取られ、徐々に芸術単体で自存するようになり、"意味"を捨て、あるいは"意味"となり、"意味"を問い表すようになり、より感情を、より感覚を、表現方法を問わずあらわすようになり、また表せるようになり、たとえば音楽は物語を弾き精神性を歌うことから遊離して、実験的な試みがなされるようになりました。

 

 従来「アート」と言えば絵画が思い浮かべられていましたが、"意味"や"美"を問う現代アートの誕生で、アートは音楽や演劇と融合したり、絵画や音楽などジャンル分けされその間には高くそびえる壁があって住み分けられていたのですが、それをやすやすと越境するようになり、キャンバスの外で描かれる出来事や事態を作品とする絵画の枠を越えて絵画とは呼ばれない絵画となったりと、アートの枠が広がりました。

 

ピエト・モンドリアン Composition with red, yellow and blue. ただし、現代アート(近代美術)のなかには宗教画や風景画などなどから構図や構成を抽出し、普遍の"美"を求めたものもありますし、コンセプチュアルアートや現実をよりリアルに映した細密画、現実を超えたものを表現したものなどなど、現代アート以前の芸術よりも、より多くの"意味"をまとったもの、"意味"自体であり"意味"事態でもあるものもたくさんありますから、現代アートは"意味"や"美"の断捨離一方通行の過程を歩んでいるわけではありません。

 

 が、それを視野に入れてしまうと煩雑になり発散してしまい収拾のつかない厄介なことになってしまいますので、ここではそういったものは横目に眺めるのにとどめて素通りさせていただきますね。

 

現代アートをわかりたい心理

 ところで、なぜ現代アートはこのように言われないのでしょう?

 どうして現代アートだけが特別扱いされているのでしょう?

 

 つまり、「ルノワールさんの絵が好き」「マニエリスムが苦手」といったように、現代アート以前の様式や作者は好き嫌いの好みの範疇、感覚・感性の問題として語られるのに対して、なぜ現代アートだけが「現代アートはわからない」と、好みの前に理解できるかどうかを問題とし、領解の問題に落とし込まれ、認知・認識の範疇で語られるのでしょう?

 

 それはおそらく「現代アートがわからない」という言葉の裏に「現代アートをわかりたい」「現代アートを受容したい」「現代アートを感じたい」という心理が隠されているからなのではないかと思うのです。

 でなければすでに「わからない」とは言わずに「受けつけない」とか「嫌い」だとか言っているはずでしょう?

 

 「わからない」ということで「わかりたい」シグナル発して、「わからせてくれる」ひとやなにかを待っているようです。

 

 このような現代アートをわかること、包容しようとする姿勢は、とても優しい心根の持ち主であることを証するもののひとつのようでもありますし、"現代"に取り残されてしまうかもしれないという不安や孤独、疎外にたえられそうになく、それを恐れる態度、あるいはそれに同調圧力を感じているようでもあります。

 

 また、わからないものをもわかろうとする心理は、自分のこともわかってもらいたいという心情の機微がはたらいているのではないかとわたしには伺われ(?)疑われ(?)るのです。

 

Don't think. Feel.

 美術に親しむ方のなかには「"現代アート"がわからないというのは"現代アート"以外のアートだったらわかるということなのか?アートのなにがわかっているのだろう?」といったようなことをおっしゃられる方があります。

 

 わたしも「"現代アート"がわからない」「"現代アート"がわかるようになりたい」といってしまっているのですが、そう言われれば確かに、なにも"わかって"なかったなあと反省を促される思いがしました。

 

 また、 「アート・芸術はわかることより感じることが肝要で、みんなが認めているからといって自分もわからなければならないものではないし、すべてをわかる必要もないし、感じるものがなければ"見飛ばし・読み飛ばし"てしまえばいい」というようなことをおっしゃられる方もいて、これも確かにその通りで、そもそもわからなければならないということはないんですよね。

 

 現代アートと呼称されるものに限らず、アート・芸術は「わかる」ことより「感じる」ことの方が大切なんでしょうね。

 

アートに直面する

 これまでのわたしを含め、「現代アートがわからない」と言ってきたひとは、「わからない」と言うことで「現代アートからは美しさが感じられない」「現代アートからは意味が汲み取れない」と言っているのだとおもいます。

 

 しかし、もし現代アートが"美しさ"を追求していないのだとしたら?

 "美しさ"よりもより"醜さ"を見せつけようとしているのだとしたら?

 ふわふわとした軽くて柔らかくて甘い空想ではなく、じゃりじゃりとした砂のように固くてなんの味もしない厳しい現実を表現しているのだとしたら?

 見た目の美しさではなく、たとえば存在すること、そこにあるということが美しいことなのだというような祈り、ある種、宗教的・哲学的な美しさを探求しているのだとしたら?

千住博さんの「強さ」にふれて価値を考えてみた件

 

 こういったところが「現代アートがわからない」の主因なのだと思います。

 

 現代アートの多くは、おそらく"意味"を目的とせず、"美"を現前させようという意図をそもそももっていないのです。

 なのにわたしたちはそれを探してしまう。

 だから「わからない」のです。

 

 問いと答えが噛み合っていないから分かり合うことがないのです。

 会話が成立していないためにすれ違いがおきているのです。

 と、わたしにはこのように思われるのです。

 

 ですから既存の視力をもって惰性の聴力で聞き分けようとしたところで現代アートから"美"を汲み取れないのは当然のこと。

 延々と"意味"を追い求めたところで一向にわからないというのは無理からぬことなのではないでしょうか。

 

 「現代アートがわからない」と言い続けてきたわたしたちは一度、芸術に美を見出すことを止め、アートとは美しいものであると解釈しようとする態度を改め、素直に作品と対面して無理になにかを汲みとろうとせず、無為自然に邂逅することを学ぶときなのかもしれませんね。

 

 しかしこれもまたひとつの視点であって、現代アート作品の中にはこれさえも、なんとか打ち立てられたと思われたこの視座にさえも揺さぶりをかけ、否定して、砂漠のように飲み込み、なにかを打ち立てることを拒絶し続けることをコンセプトにもつ作品があったりするものだから、まぁややこしや。

 

 こういったところも含めて楽しめるかどうかというのが現代アートを受け入れられる体質か否か、好むのかはたまた嫌うのかといった感覚の分水嶺のひとつとなっているのでしょうね。

 

それは「現代アートがわからない」のではなく…

 しかしこうなるとちょっと困ってしまうというのか、困りはしないのですがすこしだけ具合のわるいことになりそうなのです。

 というのは、これからはこう言わなければならなそうなので…つまり「わたしは現代アートがわからないのではなく、どうやらきらいなようです」と。

 

 わたしは技工を凝らしたものに、より力を感じる性向があるようです。

 「芸術」に「芸」とあるように、芸の秀逸を好むようです。

 

 たとえばあまり得意ではない人や動物を精巧に描いた作品があったとして、わたしはそれを美しいとは思いませんし、家に飾りたいだとか欲しいだとかいった欲が湧いてきませんが、ですがそれでもその作品からは力を感じ、目を奪われてなかなかその場から離れられなくなり、一旦は離れて美術館の出口に近づくのですが、また戻ってみたりするということがあります。

 

北川歌麿 歌撰恋之部 深く忍恋

 たとえその作品が工房作品でも大量生産品でも機械プロダクトであったとしても、芸を凝らしているようにみえるものであれば、このような状態に陥りやすい傾向にあります。

 

 このように、"意味"や"美しさ"を求めているでなく、それでも力を感じるもの、好ましいと感じるものがあります。

 

 ですが、これまでわたしが出会ってきた現代アートからは、総じて力を感じることができませんでした。対面してみるとがっかりしてしまうものばっかり。

 これはたまたま力を感じられる作品に出会えなかったというわたしの運の悪さによるものなのかもしれませんし、わたしの感性がおそろしく鈍いというだけのことなのかもしれませんけれどもね。

 

 "現代アート"という括りではあまりにも大きすぎるのですが、装飾を剥ぎ取って直裁に"生(き)"のままを見せようとしているように感じられる作品もありましたが、それでもやはりそこには技工を凝らさない、芸のないものが置かれているという意識の方が打ち勝ってしまうようで、まったく力強さが感じられないのです。

 ファスト・アートが氾濫しているように見えてしまうようなのです。

魅せられて

 

 苦みがわからなくなってしまっているような感覚の持ち主なので、なんの説得力もありませんし、そこのところも含めての好みの違いということでもあるのでしょうけれどもね。

 

 わたしは作品を愛しているのか技工を愛しているのか?それとも意図を好いているのか意味を好いているのか?わからないところもありますし、いつまでも感覚に言葉が追いつかない感じがしてうまく言い表せないのですが、今のところ現代アートからは力を感じませんし、現代アートを好まないということは…やはりわたしは現代アートがキライなのではなかろうか?となります。

 

 「きらい」と言い切ってしまうにはまだはやすぎるとの直感がはたらいていますので、今しばらくの間は暫定的に「現代アート不感症」罹患者ということでリハビリに励み、もうすこし様子をみてみたいと思います。

透明なガラスを超える時間

 

 只今「現代アート嫌い病」診断保留中。

 

すでに現代アートのなかにある

 現代アートに遭ったなら「そこに"意味"や"美" を探そうとせず、まずはすれ違ってみよう」というのがここでの提案です。

 

 こんな風に自分なりの新たな芸術観照方法がにわか建築でき、独自のアートにわか解釈が組み上がると、はやくそれを試してみたい、はやく"現代アート"に遭いたいとちょっと気持ちが急いてきます。

 たとえ次に現代アートにあって「やっぱりきらい」となるにしても、すくなくとも邂逅のその瞬間までは楽しめそうでしょ?

 

 これだけ"現代アート"に絡め取られている時点でもうすでに"現代アート"の手の内にあって「嫌よ嫌よも好きのうち」にあるのかもしれませんし、この現代アートは"意味"や"美"ならず"好き・嫌い"の感性にまで疑問を投げかけているのかもしれませんね。

 

 あっ!

 ここはもう現代アートのなかだっ!

 あなたももう現代アートを感じてしまっているよ。

 ここまでこれを読んでいる間ず〜っと現代アートに触れ続けてきちゃいましたよ。

 

 そう考えると、「現代アートがわからない」と言いつつも、案外わたしたちは現代アート・フリークだったのかもしれないと幻惑されて錯覚してきますでしょ?

 

 あなたも"現代アート"に無残につっぱねられるそれらしい観賞基点をお砂場に打ち立てて、"現代アート"に弄ばれて遊ばれて、戯れてじゃれあってみませんか?

 きっとこんな鑑賞の仕方も、どんな関わり方であっても「アリといえばアリ」といった具合のゆるい感じで抱擁してくれるのではないかとおもいます。

 

こちらもいかが?