神は自己の目
『モーガン・フリーマン 時空を超えて「人間にとって"神"とは何か?」』で、子どもたちに目には見えない超自然的な存在がそこにいるのだと説明した場合とそうではない場合、前者はその存在を疑うことがあってもズルをせず、後者はズルをするという実験とその結果の紹介がされていました。
それを見ていたわたしの自動筆記ならぬ自動思考は次のような起筆出力をしました。
「超自然的存在は自己の目」「理想の自己の目が要求する規制」と。
目には見えない超自然的存在というのは自己の鏡像、己が無意識にも理想として秘めている清らかで正しい自己像・人間像のなのではないでしょうか。
印象:無神論
心は自らが望む自己の目。深層心理では好ましいと思っていることをなさしめるための自己の目。
もしそうであるとすると、世界的にも珍しい強いて言うのなら無神論者だと自覚自認する者の多い日本人ではやや感得しづらい欧米の無神論者に対して抱く違和感や不信感、それにある種の嫌悪感や恐怖感というものがどのようなものなのか、それがどういったものなのかがすこし感じ取れたようにおもいました。
というのは、超自然的存在、ここでは安直に神としてしまいますが、それが自己の目であるとしたら、無神論者というのはそれを信じていない、それを持っていないということですから神がいない、信仰がない、信念がない、倫理がない、行動規範がない、そればかりか自己がないのかもしれない。すると今、目の前にいるのは人の姿をした人ではないなにかがあるのかもしれない。と感取されるために違和・不信・嫌悪・恐怖の対象となるのかもしれない。といった感じです。
こう考えるとそりゃぁ信じられないわぁ。不気味で怖いわぁ。という感覚もうなずけるのです。
ただ信念や信仰心が厚いからといってもすぐに安心できるわけではありませんけれどもね。その確信や教義の内容によっては無神論者よりもはるかに不気味で怖いものもあるのですから。
無神論者だからといって悪いヤツではないという認識は、文化の混交がすすんでいった中で徐々に中和されてきたようにおもいます。
外国の方が口数の少ないひとに対して「Speak up. Speak up.」と、寡黙な人の多い日本人からすると脅迫感を感じるほどの勢いで求めるのは、考えを聞くことで信念や信仰を持ち合わせているのか、ひいてはコイツは人なのか?を見極めて信じるに足る確証を得ようという自らの恐怖心を乗り越えるための営為なのかもしれませんね。
言葉への信仰と行動への信仰
なんとなく外国の方々は言葉で信じようとし、日本人は行動で信じようとする、または言葉を信じ行動を信じる傾向があるのではないかとおもいます。そしてそれをもととして起こされる人間関係構築行動が双方対極にあるものであるため一方には寡黙で不気味な人、もう一方にはアクションを強要する高圧的な人とおもわせてしまうのではないでしょうか。
番組では神について考えてもらったときの脳の活動領域を調べてみたというものも紹介されておりました。その結果、無神論者は(おそらく脳血流量のことなのだとおもいますが)あまり活性化することがありませんでした。
また祈りを捧げているときの脳の活動を調べる実験も紹介されておりましたが、その実験では祈りをあげているときは特に言語を司る領域が活発にはたらくということがわかりました。
ただし仏教徒、なかでも禅宗の場合は視覚野が活発にはたらくそうです。
これらの結果も「外国人は言葉」「日本人は行動」を補強するもののようにわたしには感じられました。
自己の他者化
子どもたちは超自然的な存在への意識・無意識によってズルをするのかしないのかという実験の紹介の次に、幽体離脱について取り上げられました。
この流れで書き起こされた言葉が「自己だけは他者とは異なり見え方が違う。見ている主観であり触覚など刺激も受け取っている。」でした。
幽体離脱を逆再生してみますと、ふだん自己は箱・身体に入っていてそこから見ています。それが幽体離脱すると自己が箱から出ることになります。
幽体離脱など神秘体験をすると箱の外から自己を見るので自己が他者化され、そして汎化されることでしょう。
神秘体験をされた方のなかにはその体験以後、自らを達観視するようになられる方がありますが、それは自己の他者化により自他の境界が希薄となるのですが、自己を自己と認識し、また他者を他者と認識するどうしても消えない消せない1つの自己意識がそこにはあり、そのために自己が1つに集約しつつも"外"にも広がり溶け合って1つとなった自己を覚知するためではないでしょうか。
先の超自然的存在は自己の目であるということ、そして自他の境界がなくなっていくということ、こういったことを概観してみますと精神世界とはただひたすらに自己の世界、世界とは自分だけの世界、自分しかいない孤独でもあり融和でもある世界なのではないかとおもいました。
今風に言えば「宗教はVRな現実」といったところでしょうか。
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