Servant心理
職務を甚だしく怠った無責任な判断で冤罪判決を出した裁判官に比べたら、ちょっとぐらい(?)ひとと違った恰好で自撮り写真をSNSに投稿する裁判官に裁かれた方がまともな判決が下される可能性は高いとおもう。
他の裁判官よりも隠し所すくないわけですし。
これで裁判官の品位と信頼を傷つけたということで厳重注意を受けたのなら当然冤罪判決を下した裁判官の方々にも厳重注意を言い渡しましたよね?
あまつさえ昇進・昇給・褒章授与なんてことしてませんよね?
最低限自らの非を自覚していますよね?
SNS投稿では実害出てませんが冤罪では実害でておりますし社会不安を高めてもいるのですから。判決に至るまでの経緯によっては憲法に抵触し弾劾裁判の対象ともなりえるのではないかとおもうのです。
このあたりのところは何度か指摘されても差し戻し、なあなあなまま留め置かれたままに放置されているように感じます。一票の格差は違憲状態だと他所には揚々と言い放ちつつ。
憲法の軛
「憲法とは○○である!」と言い切れるようなものではないのでそこになにが記されようと主権者がよいというのならなんだっていいのですが、それでも元来、憲法は公人・役人を縛るものであって私人・国民を制限するものではありませんでした。
ただしかし公人の指針や規制を示すことで間接的に国のあり方や理念をあらわすということはあったようにおもいます。憲法constitutionは構造を表すものですしね。
古くは主権者とは公人でした。それが人民主権・国民主権となり主権者の多くは公人ではなくなり、または公人は同時に主権者でもあることが多くなりました。
ひいき目に見てこのような混交がすすみましたので元来公人を縛るものであった憲法が私人にまで及び、その適用範囲が広がったというところもあるのかもしれず、身分制度の解消にともなう副作用、あるいはその指標ともとれなくはなくはなくないのではないでしょうかねぇ。
…翻す
話をもどしまして、基本憲法は公人を縛るものです。よく言われることではありますが、日本国憲法第99条において尊法義務を負うのは公務員であって国民ではありません。
さらに申しますと古代の不成文憲法においても私擬憲法においても、諸々の憲法案においてもGHQ草案においてさえ国民に尊法の義務を負わそうという意図は、すくなくとも表面上・文面上にはあらわれていませんでした。
それが自民党憲法草案第102条や昨今強めたメディア規制、議員の不明瞭な収支報告、冤罪判決に対する検証・糾弾・規制・罰則の希薄さなどなどを見るに、憲法は徐々に骨抜きにされ、公人を縛るものであったはずのものが翻って公人を擁護するものとなり私人を縛るものへと変容させられてきているように感じます。
公職に就く公人への監視を弱め、強まる気配を見せないばかりかこっそりと徐々に規制を緩和しようとしてさえいるようにみえるのは、公人が公ではなく私、自己をかばいすぎているからなのではないでしょうか。
この傾向のために憲法の牙はもがれうまく機能しないようにさせられてきたのではないかとおもいます。
ただこれをあからさまにしては反感反発を被りますので公のためを装った自己の便益権益向上作戦として、不安を扇動するという手法が使われることがあるでしょう。
不安と集中
不安は集中を呼び込みます。
将来不安だから貯蓄をし、国際情勢不安だから力を蓄えます。
有事や天災のときには即応できなければなりませんので指揮系統を整えある程度権限を集中することは必要ではありますが、有事や天災というのは頻発する日常茶飯事ではありませんのでたいていは緊張感を高めることにばかり寄与します。
公に尽くし難き支配欲、尽きぬ自由欲を満たすために不安を煽ってそれにより権限移譲を促し権力を集中しようと尽力しているのではないかと訝しくおもうことがあります。
エネルギー不足布教
原子力推進派はそのことには触れませんが、「電力・エネルギー不足を補うには原発は不可欠だ」というときに想定しているのは平時日常ではなく、他国からの資源が途絶えたとき、または戦時下のことなのではないかと思います。
省エネ技術が発達しエネルギーの多様化もすすみ、産業の集約&縮小&小型化の進展、少子化などなどもすすむ一方だというのに、なぜ電力消費量の政府推定値は伸びると考えるのか?予定通りにデフレ脱却もできていないというのにどうしてそんなに楽観的な経済成長予測を臆面もなく発表できるのか?不思議でなりません。
マイナスなことをいうよりもプラスのことをいって気分を盛り上げ、言霊による景気浮揚を図るというのはよいことだと思います。口にしていれば実現しやすくなるということもありましょう。が、こう毎度何度も予想を外してしまっていては信を失い、現実からも民意からも離れて狼少年効果を高めるばかり。
とりあえず「政府の言うことだから信じられない」という潮流を生み出しかねません。
すでにそんな気勢がちらほらみられるのではないでしょうか?
電気に限ったことではありませんが、「足りない足りない」といってみんなして徹底的かつ本格的に省エネエコ活動はじめたら、今度は消費が「足りない足りない」と言うのでしょう。そして消費が冷え込むと財源が「足りない足りない」。
ほんとに足りてないのは智慧と良心と羞恥心なのではないでしょうかねぇ。
明るい脅迫
照明器具の発明と普及により人間の活動時間は長くなりました。容易に外を出歩ける夜が長くなったのでより余暇を楽しめるようになりました。反面暗さを克服できてしまったために昼夜を問わず産業も労働も稼働時間や活動時間帯が長く柔軟になってしまいました。
夜は明るくなくてはなりませんか?そこまでして稼働させなければなりませんか?明るさは文明や豊かさの指標ですか?
夜は長くなったのに余裕は短くなったようです。
労働や成長に対する脅迫神経が光の生んだ時間でさえも消費していくようです。
Master心理
為政者になりたがらなかった支配者や為政者の地位に据えられたものの嫌々やっているような支配者というのもありますからすべてではないにせよ、多くの支配者は支配したい、人のいうことを(あまり)聞きたくない、言いなりになりたくない、指図されたくない、楽をしたいといったように、人よりももっと自由を求めるものでしょう。
とすると支配欲は自由欲?
支配したいというのは自分の思い通りにしたい、自由が欲しいということ。
科学的探求心にもこれと似たところが顔を覗かせることがあります。思い通りの真理が欲しい。そうであってほしい。法則に則って結果を導き出したいといったようにね。
相互支配関係のSMシップ
実際どうなのかということに関係なく、自分が支配的であると感じられるかどうかが支配欲解消、支配欲求消化の如何を決めるのでしょう。
ほんとうはSはMに動かされているのだとしても、その場を支配している、主導権を握っていると感じられれば満足するのでしょう。おそらく。
傍からはMはSの言いなりになっているようにしか見えなくとも、自分の思い描く情況、欲するシチュエーションに自分が誘導している、あるいは自分の願望どおりの展開になるように相手が動いてくれているといったように、自分の理想の世界に在る、Mにとって私的でステキな状況に陥り思う存分「自分の世界」に浸れることは、主体は自分にあり、無意識であってもどこかしらある種の支配的立場にあって、その場、その幻想、その世界を牛耳っていると感じられれば満足するのではないでしょうか。知りませんけど。
相手と自分のどちらか、または双方ともにこのような感覚、対極にある異種ではあっても相同なこの支配欲、自由欲が欠けていると、そこに快感情は生まれず不満足となります。
だからSM関係も相性やバランスが悪いと破綻する関係なのです。たぶん!
互いに支配欲を満足させ、互いに支配欲を昇天昇華する関係が良好なSM関係、ベストパートナーなのでしょうね。
優れたSM関係というのは隷従関係なのではなく、高度な相互総監関係なのでしょう。
暗黙の内に申し合わせて自らの役をすすんで好んで演じ、そのためにその世界においては双方支配的な地位を占める主役主人公だけの世界。このような舞台が整わないうちは現前しない魅惑至高の世界。だと思うよ。
こちら方面とっても疎いのでこのような認識であっているのかまったく当てはまらないのか、それともそういう人もいるという感じなのか聞いてみたいところなのですが、そのような知り合いいないんですよ。
ひっくり社会
みんな…ではないかもしれませんが、大多数は支配的な地位を占めたいと望むものでしょう。
支配権争奪合戦でせめぎ合うなかどうしたら双方の欲求を充足できるのでしょう。
人材確保や不正防止のために国政を担う人や優秀な公務員には相応の対価が必要だといわれますが、報酬を基準に公人になろうというのでは公共心が疑われます。
相応の組織のトップにある者には相応の報酬がなければ威信が保てないというのはただの見栄でしかないでしょう。「世界一貧しい大統領」ウルグアイ前大統領ムヒカさんを見るとそうおもいます。
それに高い報酬を出さなければ不満を持ち公共心を失しやすいという認識が一般化しているようにおもいますが、たとえばCIA職員の給与はそれほど高いものではなく、採用条件として重視されるのは愛国心です。
数万人いるといわれている一般職員だけの話ならわからなくもないでしょうが、これが諜報員であっても高収入というわけではないようなのですから。
それでいてCIA職員からの不正・情報漏洩と高報酬公人からの不正・情報漏洩とではどうも後者の方が多いようなのですけれども、これってどういうことなんでしょうねぇ?想定しているほど報酬には不正を妨げる力はないのではないでしょうか?そもそも公共心に欠けていれば報酬の抑止力はそれほど強固にははたらかないのではないでしょうか。
人の上に立つ者、組織のトップにある者が高い報酬を受け取らなければならないという理由はありません。
だからもういっそのことひっくり返しちゃいましょうか?
全体の奉仕者ーの上司
公務員は「全体の奉仕者」です。その公務員の上司というからにはとても優秀で抜きん出て率先して誰よりも「奉仕」できる方なのでしょう。
そのはずなのですがどうも実際は上司の失敗も部下に天下るようです。
上司の失敗も部下に押しつけられてしまうからそれを防止する意味でも部下の失敗は必ず上司の失敗として記録され、ときに処分も受けるようにしたらどうでしょう。それが管理職・上司というものでしょし、でないといつまでたっても上司は部下に対して横柄な態度を取るでしょうよ。
部下に奉仕できないのに全体に奉仕できるわけがないでしょう。それでも「全体にはちゃんと奉仕できている」と言い張ったとしてもそれはすでに部下を除く全体であって「全体」ではないですからね。
と、ほんとにこんなんなっちゃったら誰も上を目指さなくなるでしょうね。でもね。ほんとはそれぐらいでちょうどいいのかもよ。厄介なばかりで誰もなりたがらない役所ってぐらいがね。
こんな損な役回りだってわかっていてもその役を引き受けてくれるひとは現れるものです。そのひとこそ高い公共心と公正心をもったひとであることでしょう。ただ優秀であるかどうかはわかりませんが…。
トップになりたがらない社会の方が案外ふつうなのかもよ。
万年平社員ではなく「よっ!万年社長!」と囃し立てられるぐらいでちょうどよいのかもよ。
もう一歩すすめて給与体系も昇進するごとに下げてしまいましょうか。昇級・昇格するほどに権限は強まり広がるのですから、それだけに支配欲は満たされていくでしょうということで。
これで上司なのに上位にない感じ。部下なのに下位にない感じ。上司も部下もただの言葉で相互に支配的地位を占める、より自由欲を満たせるようになるでしょう。
…というまず間違いなく訪れない世界像を素描してみました。すくなくともお金に主導権握られている間は無理ね。
SMワールド
twitterのタイムラインを眺めておりますと、時に思いも寄らない情報をひらうことがあります。
噂には聞いていましたがラブドール、あんなに見た目が生身の人間に似ているなんて!というのもさることながら、それを保有されておられる方がいらっしゃるなんて!さらにさらにそれを公衆のゴミ捨て場に捨てる方があるなんて!!ということに驚きを隠せませんでした。三重苦ならぬ三重愕です。
「リアルさを求めていたら、あのデッサン人形にたどりつきました。」というような芸術家肌の方がそれほどいらっしゃるとは思われませんので、おそらくはちゃんとした(?)正規の使い方をなされているのだとおもいます。
この情報に晒された頃にこれもtwitterにてひろったのですが、これを二次元に移したような、視覚だけでなく触覚までをも刺激するVR技術が開発されつつあるようなのです。
自由拡張のためにVR仮想現実の拡張の方向に向かうという道もトレンドの1つとしてこれからもますますすすめられていくことでしょう。
こちらもやはりと言うべきか助平心が先行先導しているようではありませんか?
仮想現実はまさしく支配欲、自由欲拡張の道を開いていく営みではないでしょうか?
こうして拡張現実がさらに拡張して現実となってゆくのでしょう。
VRラブドールというものはまだ一般的ではないのでわたしのようにまだまだ抵抗感を拭えないというひとは多いことでしょう。しかしそれもおそらくはほんの束の間のこと。すぐに一般常識となり、「まだ」が「もう」になり、「もう」とも言われないほど日常となってゆくのでしょうね。
NARUTOやマトリックスの世界では強制的に幻覚VR世界の住人にして幸福な世界にしようというものでしたが、外からはたらきかけずとも技術がすすめばいずれ多くのひとが自ずと好んでその世界に住まうことを望み、すすんでその世界の住人となることを選択することでしょう。
性欲、所有欲、支配欲、自由欲といった本能の情動から願望し、理性でもってそれを選択する人が次々に眠りについてゆくのではないでしょうか。
個々が個々の世界を支配し生きるSuper Multiワールド。
完全に独立隔絶した世界ではなく、たとえばVRのなかで考えたこと、画期的な個人のアイデアを読み取り抽出して、他の人のVRにも反映させる並列処理的なVR世界であれば社会の発展を損ねるということはないでしょう。
VR世界であればそういうこともできて、仮想が現実に近づくのではなく、現実がなくなる、恐竜のいる世界であっても車が空を飛ぶ世界であっても不思議だとは思われないような現実だけの世界を生きるようになるのかもしれませんね。
近代以降、物は大量生産で安価になったのはいいですが、多くの既製品に生活や身体を合わせて既成社会に生きることとなりました。
身体に生活を合わせる社会になってもよかったはずなのに…。
物の溢れかえる社会では効率やエコやエゴ、生活の質などを考えて少量少品種も越えたオーダーメイドの方向にすすんでもよさそうなものなのに…。
オーダーメイドライフにもやはりVRの道なのでしょうかねぇ~。
章足らずの変奏曲
SMと憲法、公人とラブドールとを一つ所に陳列して語る人なんて他にはいらっしゃらないのではないでしょうか?
これほど異種異様な分野の隔たったものが並んでいるというのにどこかつながりがあるように見えませんでしたか?
できれば7章仕立てにして、なおかつ1章と4章、3章と6章のタイトルを同じにした変奏曲にしたかったのですが、力量も知恵も根気もだいぶ寸足らずな変態曲ができあがりました。
笑いと忘却の書(その1) - アブソリュート・エゴ・レビュー
章ごとに断絶しているように見えて実は主題らしきものが共通しているように見せられたのならこの試みは多少なりともうまくいったと言えるでしょう。というひとつなぎに書けない編集能力のなさを回りくどく隠蔽する言をもって締めさせていただきます。