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あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

『道徳感情論』と『国富論』の間隙

思考 思考-神

アダム・スミスの信仰

 アダム・スミスさんの主要著書は『道徳情操論』と『国富論』。

 

 前著は自己の内に公平な観察者の視点をもって他者への同感・共感を顕彰する一方、後著では個人の利己的な振る舞いにもおかまいなしに経済は好転していくのだからと自由放任主義を称揚しているようで、およそこの二著が同一人物によって書かれたとはおもわれないほど隔たったものであるかのように受容されてきました。

 

 しかしやはりこの生涯にわたり手を入れ続けられた唯一の著書、終生改定につぐ改定により修整され続けた二著には密接なつながりがあるようにおもわれます。

 

 また、主著ということもありますし経済社会を広範に分析しているという性格も相まって、『国富論』は『道徳感情論』より重宝されてきました。

 

 しかしだからといって『国富論』は『道徳感情論』よりも優れているだとか、有益であるだとか、そういったところは微塵もないばかりか、『国富論』のベースは『道徳情操論』にあるのです。

 

 このように、おなじ液体でありながらも水と油のようにエマルジョンしないこの二著の間を取り持ち包摂するもの、それは神・信仰なのではないかとおもいます。

 

手をつなぐ思想

 思想においてミッシングリンクを埋めるものは、往々にして神や宗教であることがすくなくありません。

 

 とはいえスミスさんにはキリスト教に批判的な言説も残っていますから「それはない」とおもわれ方もあるでしょう。

 しかしスミスさんは形骸化した神学やそれを体現したかのようなスタンフォードの雰囲気を批判しているのであって、神学や、ましてや神を批判したのではありません。

 

 このことは次のようなことからも考えられます。

 

 アダムさんがもっとも影響を受けたのはフランシス・ハチスンさんで、そのハチスンさんはスコットランド啓蒙主義の祖。

 スコットランド啓蒙思想の流れを汲むスコットランド常識学派は理論的に宗教を擁護する立場でありますし、ハチスンさんは懐疑論を展開するヒュームさんが大学ポストにつくことに反対したともいわれておりますから、キリスト教に懐疑的であったとは考えづらく、実質的なこの師弟はともに敬虔なクリスチャンであったことでしょう。それも厳格な。

 

神の御手からなる架橋

 それではアダムさんの、時に冷血に見えてしまう経済思想と(「道徳」と冠せられているのでそのように受けとめられがちですが)時に熱血に見えてしまう倫理観はどのようにつながるのでしょう。

 

 ここからはまったくの推論ですが、この二著を架橋するものは一言で言ってしまえば「神のご意志」といったところではないでしょうか。

 

 なるようになるときはなるようになる。

 なるようにならないときはどうにもならない。

 そのときは消えるだけ。その時にはもう消えているのだからその時のことを思うのは杞憂でしかない。

 

 最善を尽くした結果は神のみぞ知る。

 そしてそれがどのような結果だとしても神のあずかり知るところなのだからきっとよいはず!という緻密綿密堅実に歩をすすめていったそれぞれの著書の先には、どこか楽天的で楽観的で、無関心無慈悲で、諦観的でもありポーンと放り出して放棄してしまうような放任的でもある、なにかそんなようなところのある最後は飛躍飛躍して昇天してしまっているところがあるようにおもうのです。

 

 幼少期の誘拐事件からの生還は、このような考えを持つに至った一助となったのではないでしょうか?という短絡的なこじつけをここに付せてみました。

 

 二著において1度ずつしか登場していないのに異様な存在感を見せる「見えざる手」。

 「見えざる手」としか書いていないのに「神の見えざる手」と補って読めてしまう、「神(の)」以外では補えない「見えざる手」。

 みんな魅かれる「見えざる手」。

 みんな大好き「見えざる手」。

 そんな「見えざる手」においてもこういったところがあるでしょぅ?

 

 過程が理路整然としているだけに「最後にそんな跳躍みせないだろう」という素朴な思い込みがはたらいているのではないかともおもうところです。

 

 ところで、このように考えたとき、わたしには浮かび上がってきてしまう心象があります。それは『道徳感情論』と『国富論』のいずれでも「見えざる手」に触れ、またその言葉がとても印象的であるにも関わらず1度ずつしか使わないことでより際立ち、もって神の手に導かれるようにして二著のつながりが示されたとき、アダムさんは感激の雷に打たれて全身鳥肌を立たせて知的興奮に心酔しているお姿。

 

クリスチャン・ヴェール(Christian veil)
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 アダムさんが「神の御手にゆだねる」という高機能な敬虔なクリスチャンのフィルターを通したような考えをもつものだったとして、それでは「なぜ完全に人為・政府の介入を排除せよ!」という主張にならないのか?

 「見えざる手」を説きながらも政府介入撤廃を主張しないというのは神の全能を疑っているのではないか?

 背信・背徳の徒であると自認しているのではないかと言われそうですが…。

 

 おそらくアダムさんは、神は個人や人々がいくら苦しんでいたとしても救済の手を差し伸べることのない不寛容な存在であるだとか、そもそも意思がなく思考しない存在であるだとか、思慮の能力と慈しみの心はもってはいても万能ではないなどといった認識はもっていなかったとおもいます。

 

 神に瑕疵づいている人間相互の結びつきからなる経済活動、神に比して多分に瑕疵の多い者の手による人工のしくみであるから不完全であり、そこに神の手・配慮が及ばないのではなく、むしろ表だって指示せず人工物に、そして人類にあるていど自由に振る舞うことを許す寛容さをお示しになられているのだというような認識のものとに立っていたのではないかとおもうのです。

 

 どうでもいいことですが、アダムさん、ご尊顔がジョーカーさんより…。『ONE PIECE』のハンニャバルさんを見たときアダムさんがよぎったのはきっとわたしだけでしょうね。

 

最初の一人とよくある名前。アダムとスミス。

 「ケセラセラ(Whatever will be, will be)が見えざる手の、そしてアダムさんの思想の本義(みたいなもの)」という読み方はできないものですかねぇ?

 

 そこのところがすこし気になったものですから、ちょっと調べてみようかとおもったのですが、たとえば「見えざる手」についてそのことを検証するには、その記述のあるところの前後の文脈、さらにすくなくともそれは原著(原語)にあたる必要があるとすぐに思い至りまして、その瞬間、この目論見は頓挫しました。ケセラセラセラケッケッケのケッ。

 

 ということで、どなたかアダムさんに詳しい方、教えて頂けませんか?

アダム・スミス『道徳感情論』と『国富論』の世界

アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界

 

 

 以上、はじめの一著から生まれて人々が織りなす経済活動を分析してみせる二著目へと流れ込み、没するそのときまで両著の間を行き来するように導かれた御仁だったのかな?という妄想でした。