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あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

「常識」と「伝統」を重んじて人を社会に合わせるブラック部活動只今も進行中

お勉強 お勉強-教育

蔓延るブラックな陰

 テレビを見ていたら「今、ブラック部活が広がっています」「ブラック部活が深刻化しています」という紹介が聞こえてきました。が、今にはじまった問題ではありませんよねコレ。

 これまでずっと粛々延々営々と営為絶えず続けられてきましたでしょう。むしろよくここまで無視され続けてきたものですよ。

 

 「最近ブラック部活が広がり深刻化うんぬん」となったのはSNSの普及で拡散しやすくなっただとかスマホなどの普及で静止画・動画により現場をおさえやすくなったからなどのもっともらしい理由を持ち出して主張されることもありますが、もっと前から知ってたでしょ?

 それとも自分が学生だった頃のいやな記憶は卒業と共にすべてきれいさっぱり消えてしまい現代ではそんなことはなくなっているはずだ!とでもおもっていたのでしょうか。

 

グレーゾーン"常識"に則り只今放置中

 無視され続けてきた要因の一つに口答えしないことや耐えぬくことが清く正しく美しい理想の学生像という塔頭が建てられていたこと、勝つためにはつらく厳しいといいつつ実質ただの罵声や暴力を経ることが必須条件で発奮しなければならないという不条理な不文律を"常識"とみなし、"常識"となってしまっていたということもあるでしょう。

 

 「勝つため」や「ほんき」なら厳しいのもあたりまえという風潮がありますが、厳しさと習熟度の因果関係は曖昧ですし、どこからが厳しいといわれるのかの境界も曖昧。

 さらに悪いことには、厳しさという名目の人権侵害がみられること。

 

伝統の一撃による一蹴

 ときにそれは頭に"伝統"を冠して君臨していることもあります。

 

 なんなのでしょうねぇこの伝統贖宥状というやつは。

 

 この証書を掲げる年長者はただ「伝統」とさえ唱えればなにひとつもつじつまがあっていなくても「これで万事解決。正統性は我にあり」とでもいわんばかりにどこかしたり顔。

 

 そう言い放たれた年少者はただ「伝統」とだけ聞き及べば一から十まで納得できなくても語れば禍降りかかること自明なために口をつぐみ隷従の道しか残されない。

 

 こんなばかな伝統があるもんですか。そんな腐敗した伝統には95の論難つきつけて打ち捨ててしまいなさい。

 

バカな"常識"を打ち破るのは"非常識"

 いつの世も「近ごろの若いモンはぁ…」と嘆かれますが、そういって固持され受け継がれてきたバカな"伝統"、理不尽な"常識"を無視して打ち破り打ち捨てて改善していく救世主はきまって当初は「世間知らず」「空気が読めない」「破壊者」「常識に欠ける」などの華々しい称号を与えられた"非常識"者のなかから現れます。

 

 そしてこの称号が剥奪される頃、やっと"常識"が前よりもまともな常識となりはじめます。

 

 あらゆる伝統、あらゆる常識を覆した方がいいとはまったく思いませんが、現在"伝統"や"常識"に立ち向かい二つ名で通っておられる方々にはその調子で存分に抗っていただきたいものだとおもいます。

 

指導の名のもと行われたハラスメント実例

 先日耳にして驚いたのは、教師が生徒に謝ることができないからといって他の生徒のいるなか、体育館のステージ上で1,000回「すみません」と言えと命じて謝らせていたというものです。

 この女生徒は耐えきれずに泣きながらも1,000回それを言ったというのです。

 

 これがなにになるというのでしょう。言わせている方も言わされている方も、周りでそれを見聞きしている者も、誰一人として気持ちのいいおもいをするものではありません。

 謝罪の言葉を強要してそれで他者を敬う感情を育めるものでしょうか。なぜ謝れないのか?どこが納得できないのか?まずはそういったところを聴取することが先決でしょうに。

 ただしかしこの場合、話しを聴いた上であったとしても1,000回謝ることを強要するということには微塵の正当性も、いかなる弁解の余地もあったものではないでしょう。

 

 この教師が道徳や社会の教科を受けもっているのかは知りませんが、このようなひどい人権侵害を自ら示しておきながら徳のなにを説くというのでしょう。度重なる戦乱と闘争をへて確立されてきた人権についてどの面下げて教授するというのでしょう。

 

 もし自分が年上の者に1,000回「すみません」と言えと強要されたらそれをするというのでしょうか?"大人"に対して同じことを同じように言えるのでしょうか?"大人"には言えないけれど"子ども"には言うというのはどんな了見なのでしょう。

 

 怒鳴るということもそうですが、同様のシチュエーションであれば年上だろうが目上だろうがどんな役職だろうがふだんから誰彼お構いなしに分け隔てなく平等に同じような言葉使い、同じような態度で怒鳴るというのであればまだわかります。

 しかし相手が"子ども"であるからという理由だけで怒鳴るというのは"子ども"を見下しているからなのではないかと思うのです。

 

 生徒と教師とでは年齢・腕力・社会的地位・評価者-被評価者など避けがたい上下関係はあります。それは双方認識しているところでしょう。この立場の違いを認識していながらも高圧的な態度をとるというのはハラスメントの域にあるものでしょう。

 

情況を外から眺める視点の必要

 服装や年齢差、立場や役割などによって人の心理は左右されやすいものです。

 スタンフォード監獄実験などの心理学実験のように、人権侵害にあたるというのに実験者・指導者・教員にその自覚がなく、気づけないでいるとすれば、それはすでに危険な心理倒錯状態にあるのではないでしょうか。

 フィリップ・ジンバルドーさんのスタンフォード監獄実験は当初2週間の予定で設計されていましたが、6日目に中止されました。

 これはジンバルドーさんが自発的に中止を決定したというよりは、当時お付き合いされていた心理学科の大学院生クリスティーナ・マスラシュさんに実験中止を訴えられたために中止を決めたということでした。

 

 これはジンバルドーさんをも情況の内におき被験者とみなすような鳥瞰的な視点にたって眺めてみますと、なんだかスタンフォード監獄実験というのはミルグラム実験(アイヒマン実験)の様相を呈し、心理実験が入れ子構造になっているようにみえます。

 情況の中にある者が"常識"を疑うのはおもうほど容易ではないようです。

 であるのなら、みずからのおこないを客観視して反省する高い自制心、あるいは他者が"常識"ではない常識を提言して客観視することを促す、そんな情況の中にある者に情況の外からその情況を眺めさせるようなこころみが必要となるでしょう。

 

ウチを基準としたソトの眼差し

 客観的な視点をもつというのはなかなかにむつかしいところがあります。なにが客観的なのか?どこからが客観的なのか?といったように。

 

 客観性を客観的に追い求めるのは困難ですから自然と視点を変えてくれるこんな視点はいかがでしょうか?

 それは「自分が生徒だったら自分に習いたいか」というものです。

 

 自分が出会いたかった指導者、教わりたかった教員、自ら先生を選べるとしたら自分を選びたいと思えるかどうか。

 

 もし今の自分には教わりたくないと思うのであれば、それはほぼ間違いなく間違った指導をしているといえるのではないでしょうか。

 

仕事と化す勉学

 現在、労働者の時間外労働の上限は45時間/月、360時間/年です。

 

 学生は平日6・7時限の授業を受けています。

 朝礼や掃除などもありそんなこんなで学校での拘束時間は一般に8:30の朝礼から16:00の下校までの7・8時間といったところでしょう。

 各教科毎に休憩時間やお昼休みがあり、それらを除いてみるとおよそ実働時間は6・7時間。

 

 これで済めばまだいいですが、帰宅部などが認められておらず放課後に部活動を行わなければならなかったり、あるいは帰宅後に塾や習い事に通っているとしたら1日8時間労働をゆうに超え、上弦(上限)の月も超えている方もきっとあることでしょう。

 

 1つの組織内での時間を考えれば8時間以内におさまっている学生もあるでしょうが、1個人が複数の組織に拘束される時間で考えるとブラック企業にも引けを取らない暗闇に軟禁されている学生も多いことでしょう。

 

 好きでやっているのならまだしも抵抗できずやらされているとしたら、自我崩壊おこさず健康で毎日送れているというだけでたいしたものだとおもいます。

 

学生も楽ではなさそう…

 ざっくりとした数字ですし、それがなんの参考になるのか?ということろですが、全国の小・中学生数1,000万人に対して不登校者数は12万人を超えており、その割合は1.2%。

 

 就学期間の9年間に近く働き盛りで若者世代の30代と40代を例にとりますと、30代人口は1,600万人、40代人口は1,800万人。そして30代の感情障害者はおよそ16万人、40代の感情障害者はおよそ24万人ほどで、その割合はそれぞれ30代が1%、40代は1.3%。

 

 不登校と感情障害で比較するのもどうかと思いますし、かといって小・中学生のうつ病等の感情障害者数のきっちりとした統計データもありません(潜在的なうつ病が疑われる小・中学生の推計値として300~600万人とも言われるそうですけれども)から説得力に欠けますが、それでも不登校の多さだけをとりあげてみても、学生も楽ではないのではないかと思います。

 

 不登校の割合が成人の感情障害の割合に匹敵しているところがなんだか学生ライフも労働環境に匹敵するほどツライところがあるのではないかとおもわれました。

 

 学校という特殊である程度閉鎖的な所のことなので実際のところどうなのかはわかりませんし、今も昔もずーっと学生をやっている方はいませんから精神力やなんやかやの数値には表せない学生の側の感覚的なところの今昔が比較できないので、正確なことはわかりませんけれどもね。

 

社会にあわせた教育

 「教育が大事」とは言われますが、拘束時間に対して無頓着となり疑問を持たせないようにして社会へと送り出し、社会の仕組みがおかしいのではなく自分がおかしいのだと思い込ませて社会を改善する動きを阻む情操教育をすすめているのではないかと疑ってしまいたくなるところがあります。

 

 忍耐力や精神力を鍛えるためといって理不尽に対して声をあげない人間を育成し、ブラック企業に対して声をあげることではなく耐え忍ぶスキルを身につけよと言っているのではないかと訝しくおもうことがあります。

 

 社会(のニーズ)に合わせた、企業の求める人物像に合った教育を施すことは一概に悪いとは言えないとはおもいますが、あまりに人を社会に合わせようとしすぎているきらいがあるのではないかとも思うのです。

 

 ユーザーの利便性を汲み取って多機能化していったら逆に使いづらくなってしまったという現象が見られますが、ややわかりづらい例ではありますが、このように(想定している)社会や企業の意向を過度に汲み取って合わせすぎているのではないかと思うのです。

 

 それほど社会に人を合わせなければならないものなのでしょうかねぇ?もすこしぐらい人に社会を合わせるようにしたってもいいでしょうに。

 

じっくりことこと消費時間主義

 日本は消費時間主義とでも呼びましょうか、そんなようなものが根強く残っています。

 

 テスト近くの学生さんなどは「昨日○時間勉強した」「今日も徹夜かぁ…」と、なぜか効果測定の基準を時間ではかるところがあるでしょう?

 

 たとえば10のことを覚えることになったとして「これを覚えるのに長時間要したぁ!」と自慢する人はいないわけです。覚えるのに要する時間は短ければ短いほどいいのです。

 

 「じっくりことこと煮込んだらなんでもかんでもおいしくなる!」なんて定理はないのです。「手当たり次第際限なくスパイスぶちこんだら至極の一皿が完成する!」なんて魔法はないのです。

 熟成と腐敗、適量と過剰または不足の境界・バランスが大切でしょう。

 

受け継がれる"常識"の"伝統"

 グローバル社会となり年功序列制が崩れていき成果主義へと変化していくなか、なぜ年長者は若年層に成果主義ではなく消費時間主義を適用したがるのでしょう。

 勉強や練習といったものは短くできるのなら極力短くしたほうがいいに決まっています。それなのにいつまでもバカみたいに長時間拘束しちゃったりなんかして。きっとろくに考えていないのでしょうねぇ。

 

 「練習は嘘をつかない」と発せられるとき、おそらく言っている本人も気づいていないのでしょう、「練習時間は嘘をつかない」と消費時間主義の信奉者であることを声高らかに宣言してしまっていることに。

 

 無意識のうちについつい拘束時間に価値を置いてしまいがちになるこの傾向は、労働力を時間の切り売りで売り渡し拘束時間をもととして給与が査定されることが汎化した"常識"によって引き起こされているのではないかとおもうときがあります。

 

 漢字の書き取りなどの宿題も一律に「ここからここまで」あるいは「何ページ書いてきなさい」という不可解さ。

 目的は漢字を"覚える"ことでしょうに"作業量"や"作業時間"ではかりがち。それを基準に成績なんかの評価をつけられたのでは賢い子ほどたまったものではないでしょう。ただの難行。なんの意味もない苦行。(意味がないってことはないかぁ~。黒鉛や紙、エネルギーや時間を無駄に費やす資源と気力を損耗することには寄与していますものねぇ。)

 

 このように現代社会では、なかでも教育現場ではあちこちで目的を取り違えているのではないかとおもわれるようなところが散見されます。

 

 こうして教育された若者は社会に出て長時間労働に耐え、年長者となり"短時間尊重"教育を一度として受けたことがないために、ついには無自覚なる消費時間主義者となっていくのでしょう。

 そうして半分は自慢、もう半分は恨み節で「わたしの若い頃は…」「今の若い者は忍耐力が…」などとのたまう"常識"が"伝統"としていつまでも、いつまで~も継承されていくのでしょう。

 

 

 今回もまた一貫性がなく季節も取り違えたぶつ切の食材が投げ込まれた闇鍋文章になってしまいました。

 

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