意思の際限なき疎通と自由なアクセス権
美女(みめい)さんから頂いたコメントを読んで考えてみましたエントリにさらに「秘密と隠すことは違うのかな」とコメントを頂きました。
なぜ気づかなかったのでしょう?秘密は自存・自活・自生的なものであるかのようにしか考えておらず意図の入り混じった恣意的なものであるという認識がごっそり抜けておりました。
「秘密と隠すことっておなじだったぁ」と思い至ったら、秘密を開示するとか隠し事をしないとか、誤解が少ないとかニュータイプとか、これって隠れなさ、サトラレのようではないかとまた思考の飛躍。
サトラセるサトラレ
サトラレは自分の考えが相手に知られてしまう特質をもったひとのこと。でもこれって自分の考えを相手に知らせてしまうということでもあるからサトラレでもありサトラセでもある。
作中でこんなことを言っているのかもしれませんけれども、すみません『サトラレ』の漫画も映画も見たことはなく、おおまかな設定しか知らないものですから…。
自称する方はあまりないとはおもいますが、悟ったサトリ世代が「サトリ世代だから…」と発するとき、それはサトラセの能力が発揮されるときなのではないかな?と、余分なことまで考えてしまいました。勝手に思いついてしまうことなので止められないのです。
サトリ・サトラセ・サトラレ。意思の疎通が十二分にすぎると今度は情報量が多すぎて情報の氾濫が起きてしまうから取捨が必要となります。すると結果として秘密のあるときといっしょ?情報が隠されているときと同じように特定の情報しか取得できない隠されているかのようなものなのかもしれませんね。
ということは、わたしの考えていた「秘密のなさ」というのは、際限のない情報の交流のことではなく自由なアクセス権のことだったようです。
なぜ宇宙人の外見はみなおなじなのか?
グレイ型の宇宙人に誘拐されたことがあると主張される方のなかに「宇宙人はテレパシーによって意思を伝えてきて、わたしはテレパシーによって会話をしたのです」とおっしゃる方がいます。
そういえばテレビなどで紹介される宇宙人、喋るグレイというのは見たことがないような気がします。奇抜なファッションをしているだとか、特有のクセを持っているだとか、一瞥して個体を識別できる特徴をもった個性的な生物として描かれたことはないのではないでしょうか?
ただフィクションだからそう描かれているだけなのかもしれませんけれども、実際もそういうものだとしたら…
彼らはサトラレ・サトラセなのかな?
隠しても仕方がないからパンツを脱いだのかな?
そもそも彼らの歴史には着パンツ時代がないのかもしれない?
意思に関係なくすべての情報が共有されてしまうから外見が均質化してしまったのかな?
独白可能なのかな?
サトラレ・サトラセの宇宙人からしたら人はサトラレる一方のサトレズ?
…
と、またまたどうでもいい考え膨らみました。