まあまあここは落ち着いて考えてみましょうよ
怒らなければ伝わらないという考えは、怒鳴らず伝えようとする努力を怠っているか、自分を変えることを頑なに拒絶しているだけのわがままものなのではないかとおもいます。
まわりにいる関係のない者まで不快なおもいをしますし、怒られている方も恫喝されているように感じることもあるでしょうから、ここはひとつdb(デシベル)基準つくりませんか?
歌い継がれてしまっている恨み節
「我らは命を賭して戦ってきたのだから、我々は苦労したのだからお前も苦しめっ!」というのはウチではなくソトの感覚ではないかとおもうのです。
戦争経験者が戦後、戦争体験をあまり話したがらなかったのは平和な時代にはそれが適さないと自己判断していたからか、「自分たちは苦しんできて、戦争に家も家族も仲間も青春もみな奪われ、自由にやりたいことをすることができなかったから、だから子どもにはやりたいことをやらせてあげたい」というのが親心なのではないか、これがウチ心なのではないかとおもうのです。
「我々はこの競争社会を生きてきた。お前たちもこの社会を生きろ!」というのはエールのように聞こえますが、押しつけであり狭量であり、矛先を違えた恨み節の響きもわずかながら含まれているような気がしてなりません。
戦前世代のように「我々とは違う世界を生きよっ!」というのがウチ心であり親心というものではないでしょうか?
限定条件を付していることに気づかない衆生とそれを超えた覚者
「世界を、世界に生きよ」という教えならわかりますが、接頭辞の付された「競争社会を、競争社会に生きよ」「資本主義世界を、資本主義世界に生きよ」と言うのはよくわかりません。
その点、自身は叡山のおそろしく厳しい修行を経てきて称名念仏、南無阿弥陀仏を衆生に説いた法然さんや親鸞さんの度量はひろいのではないかとおもいます。
もちろん苦行の後、それを捨てて仏教開祖となったガウタマさんもね。
景教からきているのならイエスさんもそうでしたね。