あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

子どもが子どもなのは、大人が子どもを子ども扱いするから。

こども不在。おとなも不在。

謝るタイミング

 前回記事で怒りには性差があり、また互いの怒りの度合いによって異なる思考傾向について、おおむね経験によらない主観をたよりにやや詳しく考察してみましたが、そちらを読んでいただき、なおかつそれを支持して頂けるのであれば、「謝るタイミング」の重要性についてご納得いただけることとおもいます。

 

 謝るタイミングを見誤りますと、謝り損、場合によっては謝っているにも関わらずより相手の怒りを買ってしまうという事態にもなりかねません。

 とくに男女間では、タイミングも距離も認識もハズして不幸をかっている男性が多く見受けられます。

 女心は複雑にして単純。距離と時間だけが唯一の解決法であるということもあるのです。理屈や誠意とは関係なしにね。

 

 さて、今回は、怒りとタイミングということにほんのすこしかすったような、かすっていないような「こどもにケンカを教える」というようなことについて考えてみました。

 

ケンカをおさめる

 保護者なり教育者なり、おとなの中にはこども同士の喧嘩に対し有無を言わさずすぐに止め、お互いに謝りなさいと言われる方が多いこととおもいます。

 

 そのとき、すこしでも、こどもが自身でいけないことをしたのだという自覚があれば、そのおとなの「謝りなさい」の言葉に従うでしょう。

 しかしもしこどもが「自分が正しく謝ることなどなにもない」と信じていたとしたら、そのこどもはそれでもしぶしぶ謝ることもありましょうが、頑として譲らず謝らず泣き出すことがあるでしょう?

 

 喧嘩に至るまでの過程を観察していた上で、「こういうところがいけなかったでしょう?」とこどもを説得できればいいですが、喧嘩に至るまでの過程をみていなかった場合、二方のこどもは互いにみずからに都合のよい正義を主張しますのでその裁定は困難をきわめます。

 事情をお互いから聞いた上で判決を下し、一方の子に謝らせるにしても、また互いに謝らせるにしても、“相手に謝る“という行為には自尊心に触れるところがあり、抵抗感を表すこがいることでしょう。

 謝ることで負うこの自尊心の傷の程度は個々それぞれ、無傷な子もあれば重傷となる子もあり、さじ加減がこれまた難しいところです。

 

自尊心を傷つけずにケンカをおさめる一計

 物の分別もつかないほど幼い子の場合には有無を言わさず「ならぬものはならぬ」と言いつけなければならないことが多いとおもいますので、ここでの話はあるていどの年齢に達しているこどもを対象とさせていただきますが、喧嘩両成敗の文句として

あなたは先に手をあげてしまったことを謝りなさい。あなたは相手の挑発にのってしまったことに謝りなさい。相手に謝ることができないのなら(相手に向かって)このような状況を回避できなかった自分の忍耐力に、厄介な状況を招いてしまったみずからの力量に対して、そのような自分に対して謝りなさい。

というように説けば、互いに謝ってもらったように感じつつ、謝る相手が自分自身ですから自尊心も傷つかず、まるくおさめられるのではないかとおもいます。

 

こどもにあわせるべきか?

 それにしてもこども相手にこのような言葉を使っては理解できないだろうから、もっとこどもでもわかるやさしい言葉を使った方がよいと感じられることでしょう。

 それもいいでしょう。

 

 しかしわたしは「こどもをこども扱いしすぎている」とおもっているものですから、このままでいいのではないかとおもうのです。

 

 このときこどもに伝えたいのは言葉を理解することですか?こどもに言葉の意味を知ってもらうことではなく、伝えたいのは言葉以上の気持ちや感情の方ではないでしょうか?

 

 こどもに合わせてやさしい言葉で諭すより、たとえこどもがその言葉を理解できなかったとしても、こどもをこども扱いせず、仲裁するひとそのひと自身の言葉で諭された方がより伝えられますし、より伝わるとおもうのです。

 

 それにこどもっておとなのふりをしたがるものでしょ?知ったかぶりたがるものでしょ?こども扱いされるとすねやすいでしょ?こどもがこども扱いされたがるのはこどもなりの打算があるときでしょ?だれも望んでいないのにこどもをこども扱いする必要があるのでしょうか?

 

こどもなんていない?

 「あっ!喋ってる!」と思わずザッピングをやめて見てしまったのですが、以前ノッポさんこと高見嘉明さんが『テレビ寺子屋』で「こどもはいない。小さなひとがいるだけです」というようなことをおっしゃっていました。

 そのときわたしはやっとおなじような考えをもつ方に再び出会えたとおもったものでした。

 

 時代劇などをご覧になってもわかることですが、(いいわるいは別として)元服や所帯を持つ年齢は今よりもずっと若く、言葉遣いや任される仕事内容などからしても、むかしは今よりこどもはおとな扱いされておりました。

 

 あまり触れられませんが、孔子さんははやくから所帯をもった方が責任感が育まれるとおっしゃって、みずからも19で家庭をもったと記されていたと記憶していますが、ちがいましたっけ?

 

 むかしで言うところのこどもというのは、今で言うところのこどもより、はるかに赤子に近いものです。ですから極端に言えば、むかしはこどもはいなかったのです。極端に言えばですよ。

 

※煩雑となりますので、以降も「こども」「おとな」と区別して話をすすめさせていただきます。

 

あれは大岡裁きだったのか?

 先ほどのおとながこどもの自尊心を傷つけないように諭すケンカを仲裁する文句はなかなかすぐれた大岡裁きのように一見おもわれますが、こどもの成長ということを考えますと首肯しがたいところがあります。

 

ケンカを教える

 これで事態が収拾できるのは、優れた第三者がいればこそのものです。第三者が仲裁するような喧嘩の終息方法を採用することが常態化していると、仲裁者がいなくなってしまったときどうなるでしょう?

 喧嘩の当事者はどうこの喧嘩をおさめればいいのでしょう?

 

こどもが喧嘩を学べない

 喧嘩していたものは仲裁による事態の収拾方法以外知らず、出口政策のない、本人たちもどうしたらよいのかわからない状態におかれます。

 

 「今の子は喧嘩の仕方を知らない」というのは、相手の殴り方を知らないということではなく(そんなものはほっておいても、またそのときになれば自然と発明・発露されますから)事態の収拾方法がわからないのです。

 それは喧嘩をしたことがないからではなく、喧嘩をみずからおさめたことがないからなのではないでしょうか?

 

 喧嘩の仕方を教えるには、若年期に親が子どもの喧嘩をあるていど傍観していられるかどうかにかかっているのではないでしょうか?

 傍観ですからね。放置ではありませんよ。危険だとおもったらとめなければなりませんから。

 

 それでは逆戻りで、やはり喧嘩の仕方を覚えないのではないかとおもわれるかもしれませんが、喧嘩を強制的に止められたということは「これ以上は危険なんだな」ということを学べるわけですから、喧嘩の仕方を覚えるという目的は達せられるでしょう?

 

こどもをこどもにしておくおとな

 まわりの世界情勢やら高齢有権者数との均衡やら成人・権利・責任やらやら…そういったことをぬきにしても選挙権は18歳からでよいとおもいます。

 「やらやら」が問題なのは「こどもをこども扱い」してきたからではないかとおもうのです。

 

 都会の方ではそのようなことはないのではないかとおもいますが、まだ田舎の方では「レジのお金を盗んだりトラブルに巻き込まれるから」といったような理由で高校生のバイトを認めていない学校があるようです。さすがに深夜バイトや水商売などは問題あるでしょうけれど、そんなことは年齢関係なくやるひとはやりますし、トラブルに巻き込まれる人は巻き込まれるものです。

 なにかあったときに学校が対応するのめんどうというだけなんじゃないの?

 

 そうしておいて「きみたちはまだ社会を知らない!」

 はぁ~?教員の世界しかしらないような狭い世界しか知らん者が社会を語るかぁ?どの口がいってんの?という一方で「学生の本分は勉学である」とのたまいながら年金の支払いは一律20歳から。

 15歳から働きはじめ支払いはじめても20歳からしか計算されない不可解さ。

 

二人の少年僧がこちらをみつめている

 世界と比較したがるわりに欧米にはない社会人という言葉が「おとな」と同義に使われている不思議。

 「大学は出ておきなさい。こどものままでいなさい。」が卒業した途端に「今日から社会人。おとなになりなさい。いつまでもこどもじゃないんだから。」と、この変わり身のはやさ。こどもをどうしたいのかわからない。

 

 こどもをちゃんとおとな扱い、対等なひと扱いすればちゃんと答えてくれるのではないかとおもいます。相可高校の高校生レストランなどをみておりますと。

 

 おとながこどもをこども扱いしないおとなになることが先決なのではないかとおもいます。ということをおとなが主張する矛盾。まことに申し訳ないとおもいます。

 なんの発言力も影響力もなく、ただただだれにも聞かれない遠吠えをあげることしかできず肩身が狭い。

 

こちらもいかが?