「革新の連続が伝統」と言っておきながら変わらない職人気質
前回に引き続き↑「目にしましたので」パターンです。(←最近は「パティーン」って言うの?「あぁそのパティーンねっ!」って、はじめなんのことかわかりませんでしたよ。)
「見て覚えろ」と言って言わなすぎる弊害
『プロフェッショナル 仕事の流儀』「"最後の職人”ニッポンを支える男たち 漆カンナ職人・中畑文利/やすり職人・深澤敏夫」の回で、わたしなりに要約するとその職人さんは「熱意があって本気であればみずから考え行動するはずだから見て覚えなさい。見て覚えたことがホンモノになる。だから自分はああだのこうだの言わないよ」というようなことをおっしゃっていたと思います。
考えはひとそれぞれですから、それはそれでいいですけれども…けれども…足の置き場ぐらいは教えてあげてもいいものを。
それも職人さんの視力も体力も命の灯火も尽きかけてきて、それによって一つの文化・技術が失われようとしているそんな瀬戸際でもそれって…。
アウもアワセもある
昔は自分の意思に関わらず丁稚や奉公にだされることがありました。
逃げ出す人もおりますが、はじめはまったく興味がなかったのにその仕事のおもしろさを知り大成する者もありました。
やる気があるから勉強するも真ですが、勉強していたらやる気がでてきたということもあるでしょう。
職人気質のもよおす怠慢
職人の数が減り後継者不足が深刻となった背景には時代の変化が大きく関わっています。産業化と技術革新による廉価物の大量生産はその主たる要因となったことでしょう。
「伝統を残すには常に革新が必要だ。」「生涯修行。毎日挑戦。」「伝統は変わり続けてきたから残っている。伝統も変化し続けなければ生き残れない」と語られる職人さんは多いとおもいますが、それでなぜ指導法は懐古主義なの?
ここのところの革新を怠ってきたから招いてしまったという面もすこしはあるとおもいます。
思考停止の慣例。復讐の箝口令。
便利で低賃金で使えるし、あまり成長されると独立して客を奪われおそれがあるからあまり弟子には教えないでおこう。
でも、すこしは覚えてもらわないと仕事で使えないし、不満が高まって出ていってしまうから、ここはいつものあの手でいこう…「仕事は見て覚えろ!」(あまり見せてやらんけどな。)というわるい(偽)職人もいたのではないかとおもいます。
そうではなく、ちゃんとした職人さんであっても「仕事は目で盗め」とおっしゃいます。その大方の理由は自分がそうしてきたから。
ここには一種の思考停止のようなもの、それでは言い過ぎですので、ひとつの慣習が根付いているように感じます。
その慣習というのは、気取った言い方をしますが、職人さんは仕事という言語を身体化してきました。しかしそうして身につけた身体・技・経験を言語化しないということ。その作業を疎かにしてきてはいないでしょうか?
ここに「インプット過多のアウトプット不得手」傾向の高齢者と「インプット不得手のアウトプット巧者」傾向の若者という構図とその齟齬について考えてみてもおもしろいかもしれませんね。
言い過ぎもよくないですが、言わな過ぎというのもあまりほめられたものではないのではないかなぁとおもいます。
言語化拒否の口実
「おれはバカだからむずかしいことはわかんねぇ」と言うのは言語化の放棄であり言い訳なのではないかとおもいます。
受け継いだ技と伝統を守り後世に伝えることに使命感を抱いている職人さんがおられることとおもいます。
そういった想いを抱きつつも後継者(候補)に昔ながらの寡黙で厳しく接するという姿勢を貫くというのは、とくにその技が失われようとしているそのときには、すこし興味があったから参入してみたという方もそれなりの覚悟をもって入門してきた方も、すべて追い払ってしまいかねず機会を失します。
今は昔よりも、いやいやながら伝統工芸の世界に足を踏み入れるという方はごくごくすくないでしょうからなおさら。
偏見ですが、ここへきて男職人社会の弊害が現れてきたかなぁという感を抱いております。
間口を狭める姿勢が伝統を繋がない
仮にそのお弟子さんがちょっと…という感じであったとしても、興味はもってくれているのでしょうから、マネジメントや技の言語化など、すこし変わった形で貢献してくれるかもしれませんし、そのお弟子さんに伝わった技は未熟だったとしても、そのお弟子さんについた孫弟子が弟子の技術を追い抜き、再び本流にもどしてくれるかもしれません。
もしかするとみずからの技術をも追い抜き大成者となるかもしれません。
それもこれも伝わればこその可能性です。
伝えない・伝わらなかったとしたらその可能性すらなくなってしまうのです。
ご近所づきあいも薄れ、市場が飽和状態で供給過多のなか、よい物であってもただつくっていただけではなかなか売れないのではないかと察します。
そんななかで伝統を守ろうとおもったらマーケティングも学ばなければならないことでしょう。
興味をもって足を踏み入れた若者に職人+経営者になることを求めることになるのですから、足はとらずとも手くらいはとってあげても成長を妨げないでしょうよぉ。
その職人気質、伝統守れますか?
指物師や宮大工さんなど、物をつくる方々の技には木や金物に刻み残されるものもあります。
しかし物をつくる物、その道具をつくる技はそれよりも残りづらいです。
道具は使われます。使えば摩耗します。摩耗すればどの道具に刻まれていた技の跡も消えていってしまいます。
長年貫いてきた姿勢を崩すことになるかもしれませんが、ここはひとつ、職人さんには、技を残すために、せめてお弟子さんには"伝える”ということにもうすこし心を砕いていただきたいと切にお願いしたいところです。
「それでは心が…」と言われるのもごもっとも。
ただ聖人君子はそうそういらっしゃらないでしょう?
それにみずからの若い頃を思い返してみてください。
雑な仕事をしたことがあったでしょう?
親方や兄弟子と喧嘩別れしたことありませんか?
自分の腕を過大評価していた時期がありませんでしたか?
ひとは一度覚えてしまうとわからなかったことがわからなくなります。
子どもに「なんでわからないの!」とつい怒鳴ってしまう方があるかとおもいますが、あなたは、あなたがそれを覚える前、それがわからなかったときのことを覚えていますか?
「日本語がわからなくなってください。忘れてください。理解できなくなってください。」と言われてそれができますか?日本語を話せないフリをするのが関の山でしょう?
革新の気質。残る伝統。
以前手漉き和紙かなにかの特集で、男性のご高齢の職人さんが1人の若い女性を後継者として育てていたのですが、その間柄がまさに「おじいちゃんと孫」といった感じで、お互いぎすぎすしてなく和やかでいい感じでした。
あんな感じでいいのではないかなぁとおもいました。
こういった関係にできるかどうかは主導権を握る職人さんの方にあり、職人さんしだいなのだとおもいますよ。
もちろん命に関わることで気を引き締めてかからなければならないというようなものは別として、そうでないところはもうすこし柔軟でもいいのではないでしょうか?
体験談から一つ
みずから「職人」と称し相手の意見をつっぱねる頑固者。
しかもその考えに根拠がなく的外れ。
もうこうなると頑固者でもないただのわがままな駄々っ子。
言語化しないくせに言語を便利に繰り出す。
そんな自称職人さんに何人かあいました。
ちゃんとした職人さんにはそのような方はいらっしゃらないとおもいますが、ちゃんとした職人さんも、もうすこしおおらかにいきませんか?
昔ながらの職人気質。下町の職人さん。
「そんなことできるかっ!」と言いつつ、そう言ってしまった手前、恥ずかしいからひとにはしられないようにこっそりとためしてみる。
そんなお茶目でかわいらしく柔軟性があって勉強熱心な傾向が「腕がいい」といわれる職人さんほどつよくもっているものです。
そんな職人さんに何人かあいました。
名工ほどおちゃめで遊び心もっていたりするでしょ?