遊びたい盛り
『凄ワザ!』のスゴイひと。
NHK『超絶 凄ワザ!』で職人さんや技術者・研究者の方々の「これまでやったことがないからなぁ…」といった、不安と期待の入り交じった言葉が聞かれます。
当初そうは言っていたのですが、それでもたいていは期日内に形になっていて達成されるので、毎回その技術力と発想と粘り強さの高さに感心させられます。
ただ「これまでやったことがない」といった言葉を聞くたびに、専門分野なのに?と思ってしまいます。
どなたがお題を考えているのか存じませんが、技術者の創造性は疑いなくすばらしいものですが、第一に発端として創造的なのは、技術者の前に、この問いを提出した番組関係者なのではないかと思うのです。
この課題設定・問題提起がなければことは始まらなかったのですから。
攻められず後回しになってきたワケ
普段の仕事では攻められないところまで攻められるので目的を達することができるのだと思います。が、攻めればできるのになぜ普段攻めないのでしょう?
攻められないから?
なんで?…
それは依頼がないからでしょう。それに日々製品製造に追われているということもあるとおもいます。
研究開発を専門とする部署があるでしょうけれども、すぐに役に立つような研究開発が優先されるでしょうから、やや「遊び」のあることは後回しにされてしまうでしょう。それで「これまでやったことない」となるのだとおもいます。
発展を語るなら、アイデアがもっと直裁に利益につながる仕組みであったり、「遊び」を許容できる仕組みが必要なのではないかなあと見ております。
道化の戯れ
平和な社会ではきっと、「遊び」が多いのではないかとおもいます。
それは「娯楽」に限った遊びではなく、余暇やただボーッとしてるだけの時間も含めた遊びが。
遊び足りない
道具にも遊びがある程度ないと固くて使いづらくすぐ壊れてしまうでしょ?
遊びがなかったら殺伐としてしまいます。
そのいい(というのか悪いというのか…)例が現代社会ではないですか?
平和だから必然、遊びが多くなっていくのだとはおもいますが、思考が行動を変え、行動が思考を変えるといった相互関係がありますから、平和を望んでいてもなかなかやってきてはくれそうにないのなら、まずはちょっと無理してでも遊びを増やしてしまうのも一考一興ではないかとおもいます。
おもいきって「職業:遊び人」つくっちゃいますか?
道化師の教え
シェークスピアさんの戯曲などを読んでおりますと(宮廷)道化師が登場し、王侯貴族に毒づいています。
当時、小人症など障害をもった方がこの任に就きやすかったのですが、彼らのうちのだれかから一度は「お前達は身体が大きいから世界が狭いんだっ!」と発せられたことがあるのではないでしょうか。
中世ヨーロッパで貴族たちに使えた宮廷道化師とは!? - circus
支配階級に対する横柄な言動が許されていたのはペット感覚で人間扱いされていなかったからですが、そのような差別がなかったとしたら、わたしは道化になりたい。
高度な遊び
時代劇好きが遊び人と聞くと反射的に思い起こすのは「遠山の金さん」こと遠山景元さんではないかとおもいます。
家庭の事情にやきもきして若い頃は放蕩人。
秀才の父・遠山景晋の死後頭角を現していきます。
【にっぽん!歴史鑑定】大岡越前と遠山金四郎|じゅにあのTV視聴録
時代劇、放蕩者とくるともう一人。「水戸の黄門様」こと徳川光圀さん。
若い頃は辻斬り試し切りもしていたと伝わるほど不良少年でしたが、司馬遷『史記』にあい行いを改め、(5代将軍綱吉さんの推挙や領民への圧政など称揚しづらいところがありますが)『大日本史』の編纂事業など、後の世に多大な(吉田松陰さんをはじめとした方々への)影響をおよぼし語り継がれる人物となりました。
賢者に化ける(かもしれない)遊び人
実社会においても昔あそんでいたような方が一番の出世頭になっていたということがあるかとおもいます。
これはコミュニケーション能力が高かったということが主要因ではないかとおもいますが、他の要因として、渡り歩いて自分が活かされる場所に行き着いた、行き着けたということもあるでしょう。
そんなことを考えていて放蕩者・遊び人は意外にも賢者に化けることがありえるのではなかろうかとおもい、「遊び人 賢者」と検索してみたところ…『ドラゴンクエスト3』の「遊び人」ばかりがヒットしました。
ドラゴンクエストの遊び人という職業(?)は、他の職業より「賢者」に転職しやすいということのようで、ゲームの物語というのは決して子ども騙しではなく、なかなか含蓄があり、「あぁ、だからゲームにハマる大人がいるんだぁ」と、すこし得心がいきました。
古典の効能
人類はさまざまな失敗を経て今に至ります。
現代人が過去に生きたら、おそらく現代人は過去で同じ轍を踏むことでしょう。
人類はたいして賢くなってはいないのだとおもいます。
賢くなったのではなく、ただちょっとだけ遊びが増えただけなのかもしれませんね。
腐敗しない不朽の古典
多くの分野で古典が重視されますが、過ぎし日の思考を辿り考えることに如何ほどの価値があるのかと訝しがる方は多いのではないかとおもいます。
しかし、実際に古典を紐解けば、今も昔も変わらぬ問いに突き当たります。
ときには忘れられた重要な問いを再発見する、というようなこともあります。
そんなときつくづく「人類変わらないなぁ~」と感慨に耽るとともに、時を超えて核心となる普遍的な問いを突いている古典の効能が効いてきます。
「温故知新」。古典は強い。
昔の古典でも今、十分に遊べますよ。
古典で遊んでみてはいかが?
遊び疲れ
「制度疲労」という言葉を耳にすることがありますが、それは遊びがなくなって硬直化した仕事に疲れた状態なのかもしれませんね。
遊んでばかりでも、遊び人で溢れても困りものですが、も少し遊び疲れたひとのいる社会でもいいんじゃないかな?その方がお肌のようにハリと柔軟性と瑞々しさがあって社会全体としてはよい結果を招いてくれるのではないかな?
何の役に立つかではなく探求していたものがたまたま役に立ったぐらいの姿勢でいいのではないでしょうか?
終生役に立たなかったね。でも人生に彩りを添えられて楽しめたね。という程度でよしとする。
またそうできる社会であってもいいほど技術は向上しているとおもうのです。制度が追いつかないだけで。