あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

透明なガラスを超える時間

ガラスの遮断機

苦手だったタッチ

 わたしはシャガールさんやゴーギャンさんやアンリ・ルソーさんやマティスさんやミロさんのような線というより色な感じが苦手でした。

 でもどの方も美術館で直に対面した後ではもれなく好きになりました。すべてではないですけれどもね。

 

 シャガールさんの幻想感やゴーギャンさんの黄色やルソーさんの植物やライオンなんかには前々から惹かれるものがあり、その萌芽は眠っていたのですが(ルソーさんの人物画を受け入れるのにはだいぶかかりましたけれども)、マティスさんやミロさんにはその芽さえなかったんです。アンリ・ルソーの「Child with a doll」

 

 マティスさんはフォーヴィスム(野獣派)と評されたように直截な荒々しさの当たりの強さが…ミロさんにいたってはなんだこの文字?

 だったです。

 それが直に会ってみますとミロさんの繊細な濃淡とそこに峻厳するエッジ。

 

 それよりも衝撃を受けたのは、タイトルは覚えておりませんしそれらしい検索ワードで調べても出てきませんのでマイナーなのだとおもうのですが、家々のある海辺の1日の風景を描いた小振りの作品。

 

 時間を限定せず1日といっているのは、太陽は描かれていませんでしたが、情景が左から右へと進行しますと伸びる物陰も左から右、つまりわたしの後ろを右から左へと動き、家の壁面が投げ返す陽射しも動いて、日の出から日没まで、そればかりかあれはぐるっと一周して1日の情景なのではなかったかとおもわれたものですから。

 

 太陽の動きだけではなく視点も複数あって動いており、遠近法が崩れているのですが違和感なく調和構成されていたのです。

 フォーヴィスムは理知的ではないなんて信じられません。

 そこには時間さえも描かれ捉えられていたのですから。

フォーヴィスム - Wikipedia

 

おどろきの近さ

 美術館に行きますと毎度のことながら毎度おどろいて尻込みしてしまうことがあります。

 どこもということではありませんが、作品との間になにもないとき。

 手を伸ばせば触れられる、息を吹きかければ届いてしまう、この恐怖と感動。

 

 油絵や点描、顔料やにじみ、テレビ画面や印刷物を通すと失われるマチエール。

 その発見もさることながら、ないことで普段そこにはガラスと時間のあつみが横たわっていたことをつきつけられます。

 

 間にいろんなものを通すほどに筆致などからなる名前が消えていき、時間性も失われていくのでしょうねぇ。

 

ゴールデン・セレンディピティ

 金屏風。

 

 言葉の響きからでは悪趣味・どぎつい感覚をもたれてしまうかもしれませんが、そんなことはなく、実に静謐です。

 背景は金地ですが…無くなります。

 金が空気になります。

 そして絵がホログラムよりも浮き上がり、屏風ですから平面ではなく折れ曲がっていて、他の絵画よりも自分が動いたときの絵の動きがダイナミックに感じられます。

 絵の中に入りやすい、絵に取り込まれやすい、そんな魔性をもっているとおもいます。

 

 絵画のなかでも画面を通してもその立体感を感じやすいのは金屏風なのではないかとおもいます。

 (風神雷神図屏風を一つ所に集めて展示するのはちょっとかわいそうとおもってしまうのはわたしだけでしょうか?)

 

 数年前、光琳さんの『紅白梅林図屏風』を見に行ったのですが、そこで出会った、これまたタイトルも作者もわからないのですが、鹿の群集を描いた琳派の金屏風に目を奪われました。

 

 美術館へは「これを見よう」と決めて行くと、案外その作品には感動せず、ふら~っと回っているとき意図しなかった作品に魅せられてしまうことが往々にしてあります。

 

瑞々しい表現。水水、見ず見ず、水見ず…。

 雨も波も滝も、水の織りなす現象。水と大気と重力の協奏。

 浮世絵の雨は黒いのにみごとなものです。

 波はデザイン的ではありますがすばらしい発見・発明です。

 でも浮世絵の滝は…。

 

 エッシャーさんの滝がうまくいっているのは水量だとおもいます。

 版画で水量の多い滝を表現しようとするとこんもりとした丸みばかりでどうしてもそのなかの鋭さが出てこない。

 雨や毛割のようにとてもシャープなものの表現には秀でていますが、あつみのある鋭いもの、鋭いものからなる柔らかさという二律背反を超える表現は不得手。

 モディリアーニの「Portrait of Jeanne Hebuterne-1」

 浮世絵だけでなく、絵画、芸術は写実的でなければならないわけではありません。

 むしろ(目に見える)写実をつきつめるのなら写真に分があり、写真を利用(ただ写真を撮ればいいというものではないので「利用」としています)するといいでしょう。

 

葛飾北斎の「下野黒髪山きりふりの滝」 また浮世絵は(肉筆画よりは)大量生産・少額提供によってますし、刷り上がったものにさらに手を加えるというのも(彫師さんや摺師さんに怒られたりなんかしたりして)難しかったでしょうしね。

 

 それにしても滝の表現は写実的にもデザイン的にも、波ほど先鋭化しなかったなぁという偏見をもっています(北斎さんのきりふりの滝なんかは地下根茎かスクリーム集団かムンクさんの叫びのようでおもしろいですけれども)。

 

スクリーム

スクリーム4:ネクスト・ジェネレーション

  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 2012/03/02
  • メディア: Blu-ray
 

 

スリスリすりしアゲる。

 水墨画の波や滝を見ますと引力に引かれた下方向ににじませて表現されています。ですから浮世絵でこれを表現しようとするのなら鍵は摺りにあるのでしょう。

 

 巴水さんはそれまでの浮世絵で一般的な色数・摺数である20回のおよそ倍、(約30回を最低ラインとして)40回ほどようするようです。

 また雨を表現するのに摺り後が残るので摺師さんの腕が疑われてしまうので摺師さんが嫌がる摺り方を、表現のためと説得して摺ってもらっているようです。

 

 版画も他の芸術に劣らずさまざまな型破りと革新とをすすめてきました。

 版画で表現しなければならないということはまったくなく、それを突き詰めてなにになるというようなことですので、ただただ個人の意気地に頼るしかないのですが、波や滝など、水量の多い水の表現、ここに浮世絵、新版画のさらなる可能性を感じておりますので、どなたかご検討いただけないでしょうか。

 

 スーラさんが「やぁ~い。点描では凹凸や動きを表せないだろぉ~」と揶揄されて闘志に火がついたように、だれかのハートを焚きつけたい。

ジョルジュ・スーラの「A Sunday on La Grande Jatte」

ジョルジュ・スーラの「Les Poseuses, ensemble」

ジョルジュ・スーラの「The Circus」

 

 これまでの浮世絵の主役は絵師さんだったとおもいますが、ここにおいては摺師さんが首座に就くことでしょう。

 もう全国でも70人ほどしかおられないようで、他の産業に漏れず高齢化がすすんでいるようです。

 コンピューターのペイントソフトや印刷技術も上がってきていますが、残していきたい文化です。

 

 ↓このような古くて目新しい発想が数百年の間なかったことにも驚くとともに、美しさは見える人には見えているのでしょうねぇと感心と共に嫉妬します。

 

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