伝わるかい?
なぜか共有されている音の印象
清音の「きらきら」や「さらさら」からは爽やかで清純な印象を受けますが、濁音の「ぎらぎら」や「ざらざら」からは嫌悪や妖しさ汚濁な印象を受けます。
では清濁まじるとどうでしょう?
「きらぎら」や「さらざら」からは、清純なもののなかに一点禍々しさが入り込んでいる感じや、はじめは爽快であったのに不快な部分が見つかりそこが際立ってしまっている印象を受けませんか?
今度は濁清まじるとどうでしょう?
「ぎらきら」や「ざらさら」からは、奸計の渦中で一服の清涼剤を見出したような、不快なもののなかに救いを見出したかのような印象を受けませんか?
「きら」や「ぎら」、「さら」や「ざら」に意味はありませんが、人類がある程度共通にもつ印象があります。
玉石清濁混交させてもそれぞれがもつ固有の印象は破られず物語をつくりえること、1音素では印象をもたないものが2音素では印象をもって物語を動かし、ときに単語や1文以上の世界をみせる不思議。
サピア=ウォーフ仮説(言語相対性仮説)を仮説にとどめているところも不思議でおもしろい。
なぜ会話が成立するのでしょう?
話が通じず会話にならないことよりも、(真に)話が通じて会話が成立することの方が驚異なのだと言い聞かせてはいるのですけれども…。
※わざわざ(真に)と但し書き致しましたのは、この↓ようなこともございますので、あしからず。