愛のないメモリー
ユネスコの認定する世界遺産には無形文化遺産や負の遺産とも記憶遺産とも呼ばれるものもあります。
嘘の記録
為政者が「国益のため」と言って国益のためなら躊躇うことなく、むしろ積極的に放縦する嘘。
嘘であるからいくらでも捏造もできますし、大きな諍いをもたらすこと必至な嘘。
このような嘘はこれまで登録されてきた負の世界遺産のなかでも、もっとも愚かしく卑劣なものではないでしょうか。
また、そうであるからこそ平和的で方正な外交交渉をうながす強力な規律機構となりうるのではないでしょうか?
世界嘘遺産登録
(型はあっても)形がなくても、また、平和喚起が目的であるようなら自省と自制とを喚起するといったような意味合いからネガティブなものも登録される世界遺産のなかに、世界に災禍をもたらした為政者の嘘も十分に検証した上で負の世界遺産として、平和祈念憲章の一環として肩章して晒してしまえばどうでしょう?
人類にさらなる反省と自戒とを促す契機となるでしょうし、為政者の悪政を牽制するものともなるのではないでしょうか。
悪辣非道で武力や経済力などを笠に着た傍若無人な振る舞いによって発せられた嘘は未来永劫・子々孫々まで世界で語り継がれていくものだとしたら、そうそう悪どいことはできないでしょ?
スケールのおおきな外道
わたしも嘘や妄言おおいですが、外交や国益という言葉で着飾った卑怯な嘘があまりにも多すぎやしませんか?
しかも(褒め言葉ではなく)スケールがデカイわっ!
それを「政治」という言葉に押し込めるのなら、「政治」という言葉があまりにも不憫です。
政治は極道ってわけじゃぁないでしょ?
仮に政治が極道だったとしても仁義は通しませんか?
極道の外は外道ではありませんか?
学生にも及ばぬおとな
わかっていることをいくら反芻してもなにもかわりません。
おそらく勉強方法がわからないと言って嘆いている学生に多いのではないかとおもうのですが、問題集をただひたすらに解いて勉強した気になっているようなもので、それはもうすでにわかっていることの確認でしかなく、解けなかった問いの方にこそ未来が眠っているというのに…答え写しや答え合わせではなく、答え直しや問い直しが重要なのではないですか?
学生ならまだ間に合いますが、年長者が、それも国政を担うような人がそうだったりするから…
過去を恥じたり賠償することにだけ奔走してないで温故知新、失敗学のように失敗を見つめて失敗から学ばなければならないのではないでしょうか?
成功例は失敗例より特殊事例であることが多く、失敗例は成功例より汎用的であるとおもいます。
世界虐殺者登録
いまも世界のどこかで悪政と虐殺が繰り広げられているわけですが、たとえば地位や役職などにかかわらず1人◯人以上直接・間接とわず殺害したひとを虐殺者と指定して、世界規模で公的に批難して、国際規模で逮捕・拘束することができ、またそれが正当であるというようにしたらどうでしょう?
殺戮規制
仮にですが1人10殺制限が設けられたとして、さすがに1人で10人も殺害するというのは報復や復讐の域を逸脱しているとおもいます。
理由の如何によらず命を奪うというのは極端にすぎますし、このような国際規約に批准しない、拒否するというのであればそれは平和への抵抗の表明になりますし、それでもって「平和を志向する」だなんて言いづらくなるでしょうし、為政者の行き過ぎを抑止するものとなるのではないかとおもうのです。
1人◯殺制限によってミサイルや毒ガスなどの兵器使用の抑止にもなりませんか?
1人◯殺制限では戦争やテロへの対抗はどうするのか?軍縮でいいのではないかと言われそうですが、戦時にどうするか、とか、軍縮による兵器・兵力の削減案は戦争前提で人命基準の考えではありません。
戦争やテロへの対処については、まず状況への介入の是非を常任理事国のような代表の決定によるのではなく、常に全加盟国の協議によって決めるようにします。
そして状況介入可決となったときには、1人◯殺制限を逸脱することが明らかですので、主導権や指揮系統などの問題はあるでしょうが、それを悪と自覚して、それが悪と知りながら、国際機関が法人(格)のように、擬似的に人格らしきものをもって、その機関の名で武力制裁を行い、1事案終息する事に解散・抹殺することで、1人◯殺制限を回避するようにします。
苦しい言い訳になりますが…
人命の信用創造機構
1人◯殺制限では、殺害を実行したひとはもちろんのこと、それを命じたひとの殺数もカウントされるようにします。
でなければ命じたひとは間接的に何人でも殺害できることになってしまいますから。
すると奇妙な現象が起きます。
というのは、殺害されたひとは1人でもそれがある命令系統のもとで行われたのならば殺害されたとカウントされる総数が複数になります。
たとえば大将が中将に、中将が少将に、少将が大佐に、大佐が中佐に、中佐が少佐に殺害を命じ実行されたとすると、殺害者も被害者もともに1人ですが、総殺数は6人とカウントされます。
ある意味、人命の信用創造です。(人命創造?人権創造?人格創造?言葉はなんでもいっかぁ~。)
お金に許されて人命に許されないってほうはないでしょ?
信用は事実より信実の領分のものなんだから。
1人が複数人とカウントされるなんてバカげているとおもわれるかもしれませんがこれと似たような現象・仕組みはすでに採用されてるじゃない?たとえば中国の南京あたりで。韓国で。日本の援助交際や年金不正受給などいたるところで。
嘘も妄想も実現可能!?
嘘や虐殺の記憶を負の世界遺産として登録することで、為政者のもつ時効のようにはたらいている権力という特権に対する抑止力になるのではないかとおもいます。
とは言ってもみずからすすんで手枷足枷をはめて動きを制限しようとする為政者はいないでしょうから、為政者の側にないひとたちが協力して訴えていかなければならないのですが。
「人が想像できることは、必ず人が実現できる」 ジュール・ヴェルヌ
アニメや子どもの戯れ言のように聞こえるかもしれませんが、人の現実が想像に追いついて、いま現在の大人の大人による社会模様は世界規模の子ども騙しの様相を呈する突飛なものになっています。
「人が想像できることは、必ず人が実現できる」 ラ・フュイ
突飛な発想でも想像できるのですから、実現できないこともないでしょ?
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