泡沫思考
映画『アレクサンドリア』をみていておもったことです。※映画の内容と直接関連するようなことではありません。
暴力的無知
平和を阻害しているようにみえる暴力と支配の構図。
暴力が支配の構図を描くのか?
支配の構図が暴力を招聘するのか?
暴力が摩滅すれば支配の構図は雲散するのか?
支配の構図が崩壊すれば暴力は霧消するのか?
ここで言う暴力は物理的なハードなものに限らず、律令や道徳、信仰などソフトなものも含みます。
…ん~っそれにしても、なんかしっくりこないなぁ。
「暴力」と「支配の構図」を併置する問いの立て方がまずい気がするなぁ。
従属関係に組み直してもおいしくなさそうだしなぁ~。
ここに「お金」や「所有」を混ぜて煮込んでも味の輪郭線がボケてしまいそうですし。
それがなんなのかはわからないですが、しかしそこに致命的な欠陥があるのだと、広いサトウキビ畑のなかのわたしのクオリアがざわめくざわわ~。
土地の所有。歴史の所有。歴史をもつ土地の所有。土地のもつ歴史の所有。
第一次世界大戦期のイギリスの二枚・三枚舌外交がもたらした禍根をおもうと「所有」の権能はなんと悪魔的に強大なことか。
遺産相続についても、それは同族・血族間でさえ災禍をもたらすのですから、どれだけ無分別なものか。
宗教は発展を鈍化させ、信仰心は発展を加速させる面をもつ。
敬虔であるから厳格な信者は厳格さを他者にも求め、戒律や教えへの篤信のために変化を排斥する一面があります。
それがいきすぎれば宗教裁判や魔女狩りと称して文化や叡智の阻害や破壊をもたらし不寛容な排他性を啓示することがあります。
『プロ倫』にあるように、プロテスタンティズムが資本主義の動力となりました。
また、信仰心の対立から生じることもある戦争は命がかかっていますから、技術革新の跳躍を後押しします。
悪の召喚
ある行いは悪なのではなく、悪という素朴な語をあてがわれたときに悪になります。
異教徒を悪と呼ぶと悪になります。
善は好ましい行いを称揚するでしょうから放置しておいてもいいとおもいますが、悪という語の使用には努々注意が必要だとおもいます。
悪はその語の素朴な響きに比して与える心象は大きなものです。
映画に覚悟をみる
この映画の監督・脚本を手がけたアメナーバルさんの信仰は存じませんが、(スペインの方なのでカトリックなのかもしれませんが、言動からするとちょっとわかりません。)おそらくキリスト教圏において全編にわたって初期キリスト教徒を否定的といいますか残虐的といいますか、そのように描いたところにすごみをかんじます。
宗教心の薄い日本人の想像をこえる苛酷さがあるのではないかとおもいます。
もしアメナーバルさんがカトリックだったとしたら、みずからが信奉してきた宗教の黒歴史・暗黒面・ダークサイドをもみつめて開示する冷静さと、それでも離れない信仰心に厳粛さをかんじます。
ヒロインのヒュパティアさんがケプラーの第2法則(面積速度一定の法則)にあたる知識をもち第1法則(楕円軌道の法則)をケプラーさんに先駆けること1000年以上前に見いだしていたのかもしれませんが、ヒュパティアさんの殺害のされ方が史実とは異なるなど演出されているところもありますが、絵や画質、画角(とくにひとを真上から捉えてアリの群れかのようにみせているところ)がきれいで、天動説や地動説、慣性の法則など、科学的なトピックが随所にちりばめられた「これはいまだキリスト教てき世界像を信じていて科学に批判的なキリスト者への啓蒙?」ともおもえる映画でした。
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