自由と意志
自由意志は自由に関わる問題ではなく意志に関わる問題です。
理由・第一原因がないことが自由を許容してくれています。
不自由は進化します。選択の自由が拡がると共に、それにともなう拘束の可能性も拡がるから…。
自由・選択の拡張は懊悩をも拡張します。
情報の拡張と共有・並列化が選択(肢)を拡張して自由を広げました。
而して不幸も。
何もできないことは喪失や欠如とは異なります。
自由意志は包括的な視点に立つほど否定されます。
自由意志の肯定・否定は解釈によります。
自由意志は微分の目。
包括的な視点は積分の目。
どちらも目にかわりありません。
自由と選択
自らに(事)由を持つことが自由。自らに選択の由緒があることが自由。自由は選択。選択は自由。判断基準を自らに持ち、その選択余地がみずからにあって実現することが自由。自由はその能力を行使するかどうかを決めること。可能性をもつひとが選択すること。逆説的に言えば、可能性をもたないひとには選択権がなく自由がないということ。
自由は、可能性を獲得するためには何かしらの選択が必要であり、選択するためには可能性が必要という、可能性と選択の円環構造をしています。
そしてその原初には生があります。
生の獲得、すなわち可能性の獲得。
このとき同時に選択権を得ていると言えますが、誕生時(どの時点を「誕生時」にするかはこの場合あまり考えないことにして…)には理性や思考がないので、選択というよりは受動。
科学的には、人の選択は脳のゆらぎによるというデータが得られているので、思考獲得後であっても結局は受動状態といえなくもないですが、受動であってもゆらぎであっても、その選択を引き受ける、自分で決めたと意思するのであれば自由。
これも必然であり円環・トートロジーな構造をしていますが…。
善悪は自由ではなく、自由(の可能性)に開かれているかどうかに関わります。
したがって、国の役割は個々のこの自由への開かれを確保することにあるのではないでしょうか。
すると争うことも自由に含まれそうですが、命を奪うこと、隷属させることは自由への開かれを一抹も残さず奪うことなので禁じられます。
あるいはその自由を放棄する自由を行使することは、その自由より自由であると考えられないでしょうか。
選択すること、選択できるというその可能性が自由であるのなら、そもそもそのような概念を持ち合わせていないひとにとっては、自由は「自由」という枠組みから離れています。
自由とも不自由ともいえない超自由の域にあります。
自由の発現には不自由な世界が必要です。
知性によって自由を得て不自由によって自由を得ました。
自由と幸福
自由であることは必ずしも幸福を意味しません。
何もできない、あるいは、ある1つのことしかできない人には選択肢はありません。
なので悩む必要がありません。
悩みが1つすくないぶん幸福であるということもあります。
知らないから幸福であることがあるように。
もちろん選択肢がないから悩むことの方が断然おおく、不幸であることの方が圧倒的におおいですが。
般若心経で、一切皆苦の後に色即是空と続くのは、苦ではあるけれど空なのだといいたいのではないでしょうか?
色即是空の後に一切皆苦と続いていたら、空だから苦なのだと受け取られかねませんから。
こちらもいかが?