限定的能力
救いの障害。障害の恩恵。
後天的に精神を病むということには救いの面があるのかもしれません。
人格障害はそのすべてではありませんが、自己防衛のために引きおこされます。
自己防衛反応からできた人格には人や社会から剥離・乖離してしまった本来の人格を特異な形ではあれ仲介して、人や社会に留める作用があります。
しかし人格障害というある種の災厄、ある種の恩恵にあずかることができるかどうかは人によります。
恩恵・災厄は人を選ぶのかもしれません。何の基準も設けずに、ただ運にのみよって…。
能力の固縮
障害を負うことである能力が低下・消失してその能力に拮抗していた能力が表出しやすくなるのではないでしょうか?
もともと能力を秘めているのですが、他の能力と相殺されて表に出なかったり、出づらかったりするのではないかとおもいます。
腕力が発揮されてはいてもそれが過剰で拮抗筋がはたらいて巧緻性が発揮されない固縮や痙性麻痺(痙縮)のように。(ちょっとちがう…?)
限定の洗礼
赤ん坊はさまざまな能力を持って生まれ可能性に開かれています。
しかし、たとえば日本人の赤ん坊であっても英語やフランス語を聞き分けられるのですが、その能力を使用・強化しないことでその能力は失われます。
成長も進化もその環境・状態に特化した限定の恩恵を受けます。
学習などによって能力が上がるともいえますが、学習によってその分野に特化した限定をうけるともいえます。
進化は変化のことなので拡散的・拡張的でもあり、縮小的・縮減的でもあります。
人間は成長過程で洗脳・洗礼を受けます。
わたしには一歳の頃の記憶が残っていますが、そのとき見ていたものは今とかわらない見え方をしています。にも関わらずその頃に描いた絵を今見ると、何が描かれているのかわかりません。そのときは確かにそれが何であるかがわかっていたのに…。
あまりに狭い範囲やあまりに広い範囲、あまりに速い動きやあまりに遅い動き、あまりに単純なものやあまりに複雑な刺激は知覚されません。
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