これも自我。あれも自我。
デカルトさんの「コギト・エルゴ・スム(我思うゆえに我あり)」の最初の我と後の我は別物?
前の我は「(自)我」ではなくて超越的な我であって、後の「我」が個人的な「(自)我」?
デカルトさんは自我の発見者ではなく存在の発見者?
スピノザさんはデカルトさんのこの点を看取していたのでは?
自我の言葉
自我はある場所、特定の器官に鎮座するものではなく、変化・移動するものではないでしょうか。
自我は渾沌の中で身体という複雑さを感知することで生じます。
どんな思考にも必ず遅れが生じるということは、幸か不幸か何も確かなものはなく、どれほど理路整然としていても、すべて形而上学となることを明かしているみたい。
だから、もっと自由に、もっと文学的に語るデリダさんが生まれたのではないかとおもいます。
感得するということでも遅すぎる。
実体をもたない姿
存在は不在というあり方をして決して形を現しませんが、ところで、これまで現れたものはあったでしょうか?
空間も時間も、これまで一度として形を見せてくれたことはありません。
存在はある対象を表すもの・語ではなくて、その形式・あり方を表すもの・語なのではないでしょうか。
哲学は結局、始原学のこと?
始まりは必然であり、必然は始まり…。
構成としての自我
自我を持つものには身体が必要です。
わたしたちは複雑さという意味では同じですが、それにも関わらず他人の思考・知覚を知ることができません。
これは自我がある塊なのではなくシステムによって成り立っているからではないでしょうか。
自我は構成によって成り立っているのです。(構造主義的?)
つまり身体という結びつき・システムがなくては自我は生じないとおもうのです。
一の中の多。
言葉な自我
反応が無理やりにでも自我を与えます。
自我は言葉です。
なので触覚をはじめとする五感を言語獲得前に失うと、あるいは元々ない場合、自我は形成されません。
その後であれば形成されます。
つまり自我は言葉という反応の産物。
私が私について考えるとき、私は対象となっており、既に私は私ではありません。
私は「~ではない」という知覚の反応によって私となります。
私ではないという概念をもつためには「外」が不可欠。
逆に言えば自我に対して外がないのなら、それは自我たりえません。
他我という、他我による、他我の内の、他我の特殊化した自我。
私が私を見出すとき、それは言葉によって私が対象となったとき。
象る。形作る。
ミラーニューロンは私について考えているときも働いているのでしょうか?
働いているのであれば私は私を対象化して私をも模倣していませんか?
個体が個体を意識するのは脅かされたとき。
個体があるから脅かされるのではなく、脅かされて個体が生じる?←何に?外に。外に侵食されないように。
人はつねに自分を取り逃しては捕まえ、捕まえては取り逃すを繰り返すような不安定なシステムなので、自己を規定するものを欲するのかもしれません。
人がなにかに向かっているとおもわわれるのは、この自己規定に向かってではないでしょうか?
あの問題もわたしの問題
人が人を求めるのは自分を保つためなのかもしれません。
自分を求めているのかもしれません。
つねに人を求めているのなら、つねに自分を求めているのかもしれません。
つねに自分を求めているのなら、つねに人を求めているのかもしれません。
もっと人を求めてもいいのかもしれませんね。
自由は不安を与えます。
なぜなら、たとえば何にでもなれると言われたら現状は何でもない、何ものでもないことを意識・認識してしまうから…。
わたしたちは世界の一部であるということは、わたしたちが世界について考えることは、わたしたちがわたしたち自身・自我について考えることとさほど変わりのないことなのかもしれません。
離散的で集約的な自我
長期増強(LTP)というニューロンやシナプスに繰り返し信号が送られることによって記憶や伝達効率を高めるという性質が自我を生むのではないでしょうか。
つまりLTPが内と外とをわけるようになるのではないのかと…。
膨大な知識が人格を生じさせるのではなく、膨大な知覚とそれにともなう構造・ネットワークが人格を生じさせるのだとおもいます。
知識は記録という静ですが、知覚は反応・相互作用という動です。
認識が社会を形造り、人を形作ります。
脳→感覚器官という命令・支配でも、感覚器官→脳という集約・操作でもなく、脳 ←→ 感覚器官という相互作用であるのは、互いに、また自らも作り合っているから?
これは脳と感覚器官に限ったことではないのでしょう。
主客は流動していて留まりません。
これは進化でも共存でも退化でも破壊でもありません。
むしろ流転という不変。
こちらもいかが?