みな同キョウ
異教徒は信じるものが違うということではなくて、教理・郷里は同じなのだけどそれを徹底できないものとは考えられないでしょうか?
あるものを神と呼び、その呼び名は異なれども同じ何かをさしているのではないでしょうか?
たとえばこれまでは厳格で誰も疑い得ない信仰心の篤い信者がいたとして、このひとは日に決められた祈りを1日も1度もなにがあっても欠かしたことがなかったのですが、病状の悪化による昏睡や人に睡眠薬を盛られたなどして1度の祈りを怠ってしまいました。
このひとを不信心者と非難して罰するひとはいないでしょう。
異教徒と呼ばれる人たちは自分たちとなんらかわるところはないのですが、ただ1度の、いや数十回、いやいや数百回それが続いて今に至っている同教者とは考えられないでしょうか?
現に、たとえば日に5回礼拝を行う熱心なイスラム教徒でも、礼拝時間に遅刻してやってくるひとは多く、「そんなことで神様は怒らないよ」と、もっともなことをおっしゃってますよ。
異教徒という語には理解しがたい相手を排斥・排除してもよいという贖宥状の響きがありませんか?
プロパガンダは敵の設定とその呼び名からはじめられますでしょ?いじめもそうじゃない?
みんなガイアの子。…と言ってしまうと抵抗感を煽ってしまうかもしれませんが…それでいいじゃない。メデアの子では生き残れないですよ。
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