読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

「ここ」「どこ」?そこ「ここ」?どこ「そこ」?…ここはここっ!あぁ〜「ここ」かぁ〜。ちがうって!!ここだって!!!


存在までの遠さ

孤独な存在

 存在忘却ではなく存在に至らない。

 それも常に…決して。

 

 存在(つまり私、つまりはここ)は孤高にして孤独。

 存在そのものと存在・「存在」の違いはあまりにも大きい。

 「存在」は決して存在に至らない。

 「存在」については語ることも意味づけもできるけれど、それは「存在」が存在(そのもの)ではなく、存在のうちにあるから。

 

存在の外

 しかしだからといって存在の外に出ればいい、存在の外から語ればいいというわけにはいかない。

 存在には「外」はあっても外(そのもの)はないから。

 つまり、存在について語ることができるのは、それが「存在」であって存在ではないから。そしてまた存在について語ることは不可能。

 

 存在を「知る」ことはできても、存在について「知る」ことはできても知ることはできません。それがウィトゲンシュタインさんにおいて示されると表現されていることではないでしょうか?

 

哲学の存在までの距離

 ここにきて真という言葉があまりにも卑小・卑猥に感じられます。

 ここという言葉や感じるという言葉、そもそも言葉自体が真理を表現できず解明もできず、近づくことさえできない、いくら言葉を尽くしてもまったく近づかない、この言葉自体にも卑小・卑猥さを感じてしまうことがあります。

 

 ここでウィトゲンシュタインさんが『論考』で哲学を終わらせる気でいた香りをすこ~しだけ嗅ぎとれたような気がします。

 また永井さんが『インサイト』で哲学ははじまってもいないと言った風をすこ~しだけ感じられたような気がします。

 

 そこで私は、哲学は不可能で、せいぜいが思想しか成り立たないとおもってしまうのです。(本当は断定したいところなのですが、そんな力量ございませんので…。)哲学することは不可能だとはわかっていても、ここについて考えているこの瞬間、この今、このここでのみ哲学が成り立つ(可能性がある)のではないかとおもうのです。

 すると…世に哲学書というものが存在し得ないことになってしまう?

 

 それでもここについて考えること。哲学はここにしかない?という悟性?

 

わたし - ここ

わたし。どこ?

 「私」は「私」・<私>・ここを愛することができますが、<私>は<私>・「私」・ここを愛することができません。

 同様に、「私」は「他人」・<他人>を愛することができますが、<私>は「他人」を愛することができません。荒っぽく言えば「私」は(統覚された)意識のようなもの、<私>は存在や場といったようなもの。

 

 この私のこの、つまりここという指示名詞の表すもの、あるいはそれが指し示すものは私・「私」といえるのか?

 つまり<私>は「私」といえるのか?

 「私」と<私>は同じものなのか?

 ここと<私>は同じか?

 ここは<私>と同じか?

 ここを<私>と言っていいのか?

 「私」が<私>を見いだして、ここに至るためにここと<私>が同一視されているのではないか?

 ただ語が違うだけでここを言い表すことができないために<私>と言っているだけなのか?

 「私」は<私>がある程度の、あるいはなにかしらの場を(世界のうちに)占めていると想定しているから、ここと示されるのではないか?

 カントにおけるキング・オブ・カテゴリー、時間と空間のうちの1つである空間的な表現であるここ、と。

純粋理性批判

純粋理性批判 上

 

 

ここ。どこ?

 ここは場を占めるのか?

 点や線の概念のように幅がないのではないか?

 あるいは場を占めないのではないか?

 ここについていくら考えてもそれは「ここ」であって<ここ>ではない。

 だから無限後退に陥って結局答えはでないということははじめからわかっていること・ここ。

 

 ここがあるから「私」があるのだけれど、「私」がなければここは見出されない。

 シュレディンガーの猫や量子論、もっと広くいって科学は、事実や結果、経験や原因があるから解釈が成立するのですが、解釈・視点がなければそもそも何を見ればよいのか?

 何を見るべきかがわからず、事実や結果が成立しないのではないでしょうか?

 経験や言葉においても、まず経験があったのですが、後に言葉があって経験が成立するようになったのではないでしょうか?

 あらゆるところで逆転がおきて転回して巡るようになったのではないか?

 

ここにわたし

 ここ・<ここ>は私・<私>か?

 ここを占めるのが<私>といういわば存在であるから「私」は<私>をこことする。

 「私」において、ここ=<私>。ここ≒<私>。

 「私」は<私>を「私」と言うことはできても、「私」は<私>が「私」であるかはわからない。

 <私>は「私」?

 

わたしのここから

 道徳や倫理の根拠を揺るぎないものにするにはぜひとも解かなければならない謎があります。それは道徳や倫理(を含めたすべて)の根拠となる「私」とは何か。そしてそれにもまして「私」と<私>のつながり(つながっているのかどうかということも含めて)。

 「私」は<私>を「私」といえるのか?「私」は<私>とは断絶しているにも関わらず…。

 つまりあるということの謎と、それ・ここ・<私>と言い得ることの謎。

(「私」が<私>になったとき)「私」は(なぜ<私>を)「私」と言いうるのか?

 <私>・それとはこの・<私>の私・「私」の、この性のこと。

 そもそも<私>と言いうるのは「私」からはじめたから…。

 

ここからわたし

 「私」は瞬間生まれ続けて、死に続けます。「私」が死ぬのは確からしいけれど、<私>は死ぬのかはわからない。(他者の)<私>が死んだ人を見たことはないし、たとえそうなっていてもそれは知りえないこと。

 

 また死と同じように生についても同じことがいえます。

 <私>は生まれたのか?

 生まれることができるのか?

 そもそもあったものなのか?

 輪廻転生しているとしても以前の記憶や本質が失われて残っていないのであれば、「私」は(すでに)「私」とはいえず、「私」ではありません。

 だから「私」の<私>と「(この)私」・「(以前の)私」の<私>が同じかどうかはわかりません。

 そもそも<私>についてははじめから何もわかっていないのです。

 

 自殺によって自我がなくなるとおもうのは一種の賭けに過ぎない。

 そうなるかどうかはわからないから。

パンセ

パンセ

  • 作者: パスカル,前田陽一,由木康
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 1973/12/10
 

 

 私、つまり「ここ」は、私・「ここ」にとって希少価値が最大、つまり1。

 したがって何よりも重要で価値があるのは私…。

 

 言葉は私に追いつけない。私が言葉を追っても言葉は私に追いつかない。私は言葉にならない。

 すなわちすべてが言葉にならない。

 言葉自身も…。

 

 「今、ここ」からは逃れられない。

 言わば原罪。

なぜ意識は実在しないのか

なぜ意識は実在しないのか

 

 

こちらもいかが?