解を問う科学。問いを問う哲学。
思考することで息をする生きもの
哲学者は思考の奴隷。その隷従者は隷属から逃れるために思考を続ける。
思考の刑から開放されるのは死か真理の獲得・確信・発見・創造・盲信・思い込み・到達がなされたとき。
ただしおおくの場合は死に至ったとき…。
哲学者は死ぬしかない。死ぬまで死ぬために思考し続けなければ…。
これを否定するにもやはり思考しなければならない。思考の刑から逃れる術はない。
ただし刑といっても自発的にみずからに与えるのだから幸せな刑なのでしょう。
思考の徒。隷属者。…哲学者。
哲学者は思考することで息をする生きもの。
つまずくために歩くひと
哲学。直訳すれば愛智。
愛智は知を愛すということですが、知を愛すためには愛を知ることが必要なのではないでしょうか?鶏が先か、卵が先かといったように。
いったいどちらからはじめればいいと言うの?
哲学はつまずきの連続です。つまずきは問題に出会うこと。いろんなところでつまずくこともあれば、同じところでつまずき続けて一向に進まないこともあるでしょう。
問題に会うことは挫折・絶望でもあり、幸福・狂喜でもあるでしょう。
およそつまずいて喜ぶのは(哲)学者ぐらいでしょうけれど…。
探しものは何ですか?
内田樹さんや甲野善紀さんの選択はおもしろい。武道という方法で哲学してる。
下手な学者より哲学者らしい。
矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱うこと
答えを見つけるよりも問題を見つける方が難しい。
答えのない問題より、問題のない答えの方がすくないから。
問題のない答え。問題に先行する答えが時にあります。
答えが既に提示されているのに気付かなかったり忘れている場合。
とくに時間や場所が隔たっていると見過ごされがちになります。
答えから問題を予測するということもありますし。
哲学以外の学問のおおくはある基準をもとに世界を組みあげますが、哲学は(組みあがった世界の)基準を探します。
哲学以外の学は答えを求めていますが、哲学は問いを求めています。
哲学は学問というかたちではなく、学問という運動。
ウィトゲンシュタインさんは
哲学は学説ではなく、活動である
と言います。
学となるためには語られなければならないのだけれど…形而上学は語りえないものを語る形容矛盾の学?
宗教家と哲学者
問いの探求者が哲学者。
真理の探求者は宗教家?
真理はない、あるいは語りえないことを哲学者は重々わかっているみたいだし、哲学は真理を見つけるものではなく問題を見つけるものだから。
知を得ることではなく問いを得るための活動だから。
それに、(哲)学者の質はその問いの良し悪しによるともいうし…。
体系的な哲学とは世界をするっとまるごとつくってしまうこと。
1=0.99…ですが、これは哲学と思想の違いに似ているように感じます。
0.99…は最後の最後に1になる可能性があります。1に限りなく近づき続けます。
だから1であるとするのが思想。
いやいや0.99…はまだ確定されていないのだから、(決して確定されることがないことをわかっていながら)もしかしたら確定させる方法があるのではないかと(確定することを(永遠に)先延ばしして)考え続けるのが哲学。
数字は科学信奉者の神。
証明は証拠ではなく信じること。
証明には前提が必要です。
数学における数・思考・知性・概念・あるということなどなど…。
哲学の問題
いかに対立してみえる論も解釈が異なるだけ。
哲学は常に(何かが)あるということを巡っています。
哲学の主題は根本的に1つしかないのではないかとおもいます。それは…
無ということ。
ここ・<ここ>ということ。
私・<私>ということ。
1ということ、あるということ。
1つと言っておきながらいくつもあげられていますが、これらは言葉は違ってもその問題は同じものです。
第一問が最後の一問
哲学はその問の単純・簡潔・素朴さと本質的には1つであるという問の少なさにより、ある種近寄り難いものを感じさせます。
つまり、これまでに誰かがその問を考えて表明してきたのだから、すでに自分にできることはない、自分がすべきことはない、それらはすでに乗り越えられてきたとおもわせるから。
しかしこの最も素朴にして古くから身近にあり考え続けられてきた哲学上唯一の問は解かれたことがありません。
そしてこれからも解かれることがないことだけはすでに知られている唯一の解です。
その行為が無意味であると「私」は認識していながらも考え続ける哲学徒は(永井さん風に言えば)狂人です。
狂人でない哲学者はまともで健康な思想家なのではないかとおもいます。
思想家と哲学者
相対主義も相対化する視点。
思想は思い想うこと。どこまでいってもカッコで括られたことについての言質。
その点において、書かれていることは「真」ではありますが真ではありません。
つまり荒い言い方をすれば、思想においてはなんとでも言えるし、それは真ですが、かといってここ(つまり哲学)においては全くの的外れ。
それでも哲学をやり続けるか?それとも諦めて思想をやるか?
哲学(者)という語もここからすれば不純物のおおい言葉。
哲学者の共通感覚は「またこんなものを書いてしまった」という、ある種の自己嫌悪ではないでしょうか。
なぜならここについては語ることができないとわかっていながらそれをしてしまったのですから。
その点思想家はある種の自己満足を感じるのではないでしょうか。
なぜなら独自の考え・世界を提示できたのですから。
(精神的に)哲学者は不健康で思想家は健康なのかもしれません。
自死をとげた哲学者と思想家。
どちらの方がおおいのでしょう?
諦めが粋の要素の1つであるのなら、思想は粋。
それに対して哲学は諦めないから不粋といえるのかも…。
あぁ喪なのね哲学は…。
こちらもいかが?