問が問う問
理由は意志を獲得したものがもつ弊害。
なぜ理由を問うのか。
必ず理由があるはずだと盲信しているから。
すべてに理由があると考えるのはすべてに意志があると考えるのと同義。
「なぜ」と問うことと理由とは表裏一体。
問いが発せられるのは理由があると信じているから。
なぜと問うのは理由があると前提しての意図的な戯れ。
問えないのではなく問いがない。
問いが答えを生産してきましたが、答えが問いを生産して、それが主題となってもいいんじゃない?
あなたの問い
まだ誰にも知られていない問題。まだ誰にも解かれていない問題。すでに知られているけれど、誰にも解くことができない問題を考えてみてください。
ただし、ウィトゲンシュタインさんの「言いえぬことについては沈黙しなければならない」といったような、言語表現が不可能だという類の言語学的な意味のそれではない問題を。
問いえぬ問。
まだ問われずねむっている問。
解けない問。
それがあなたの問となり、あなたの生涯の問となりえる問です。
うまくみつけられれば生涯遊べるあなたのおもちゃになります。
こどもの問い
方法は子どもに新しい遊具を与えるようなもの。
子どもはそれで遊び続けます。
ほとんどの子は途中で飽きてしまいますが、なかには迎えがくるまで遊び続ける子もいます。
そしてごくまれに、迎えがきてもかたくなに遊び続ける子がうまれます。