愛の散文
時に愛は肉欲の歪曲表現・隠蔽者となります。
卑俗なものも表現も、あたかも神聖なものへと昇華してしまう。
行為は同じでも言葉がかわれば表裏反転。
愛は肉欲と同義か?
それとも肉欲の先にあるのか?
幻想か?
はたまたただの言葉か。
叱責干渉
過度な叱責はある種の甘やかしとなることがあります。
(親の)見栄であることもありますが、一般に干渉は相手のことをおもった優しさから複数回にわたって相手と関わることです。
この点が過度な叱責と干渉とが共通因数を持つところだとおもいます。
過度な叱責は、八つ当たりのように、無関係なことでも叱責することがあります。
この、本来無関係なことにさえ相手を関わらせるということが、本来存在しないところにも存在の場、存在の居場所を提供しています。
虐待を受けて育った子やDVに苦しんできたひとたちが、加害者から離れない・離れられない一要因が、加害者が自分の存在・価値の創造者であるからだという面もあるそうです。
愛憎劇
愛を知ってから愛そうとするひとと、共に愛を探そうとするひと。→すれちがい。
愛と憎しみとは両立します。むしろ、憎しみが強いほど愛もつよまり、愛がつよまるほど憎しみもつよまります。
ただし、両立であって同時ではありません。
錯視図形のように、片方に焦点を合わせているときには、もう片方には焦点が合わないどころかピントすら向けられてはいないのです。視界にないのです。それは不可能だから。
可能であるひとは、ロボトミー手術を受けたひとのように、ある種の脳機能障害・愛憎機能障害をおこしているのかもしれません。
出会わなければこれほど苦しむことはなかったのにといった憎しみ、憎悪・嫌悪を芽吹かせて、それがために特異で唯一の存在へと押し上げられて昇華されます。
愛と憎しみの干渉
ところで、愛と憎しみとは、互いに強化し合う相補関係にあるのか?互いにとって必須のものなのか?つまり、憎まずに愛せるか?愛さずに憎めるか?
愛さずに憎むことができ、また、そうしたこともあることから、相補関係とは言えないでしょう。
すべて愛していることが前提。愛が前提であれば相互に強化し合いますが、憎しみが前提の場合は、憎しみの強化でしかないでしょう。
愛のために命をかけるひと。心中するひと。失恋で命を絶つひと。尽くすひと。
愛には命をかけるほどの価値があるのか?
愛に限らず、すべての言葉について言えることですが(話がややこしくなるので、ここでは代表して愛という言葉を使います)、愛は意味も価値ももちません。
愛のために時間を費やしたり、思考を巡らせたり、手間をかけたり、感情を動かしたり動かされたり、行動したりすることで愛に愛着がわいて意味や価値が与えられてるのかなぁ?
愛するから命をかけるのではなくて、命をかけるから、命をかけたから愛する。
あたかも悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいということのように、愛と意味とは転倒している?言葉は転倒の産物?
人生に意味を与える愛の重し
何かのために死ぬことは、死ぬことでそのものに人生最大の、あるいは人生において初めて、唯一の、最初にして最後の意味を与えることなのかもしれない。
何かの「ため」というのは、形のないものに形を与えて、意味のないのものに意味を与えます。
何かのために死ぬことは、意味のないものに意味を固着させます。
ただしそれは、そのひと自身の特有の意味であって、万人共通の意味ではありません。
何かのために死ぬというのは、自らの人生の発明方法。「ために」のために。人生はそれのために捧げられたことになる。
愛の最も簡単な証明方法は、「愛してる」と言うこと。
愛しているから言うのではなく、言うことで愛が愛になって、愛していることになって形を帯びるから。
愛がないから尽きぬ愛
愛は尽きない。なぜなら、そもそも愛は存在しないから。
愛想が尽きるというのは(←※本来の意味とは異なりますが…)、愛する想いが尽きるのであって、愛が尽きるとは言っていません。
本来ないものを愛と呼んでいるので、それには目標・形・目的・ゴール・終着点がないので、愛は尽きない。
愛さない。
愛せなくなったというのは、愛と呼んでいた状態に馴化、もっと簡単に言えば慣れたり飽きたりした状態。場合によっては嫌悪のために、本来の何もない、価値をもたない地平へと後退させた状態。
愛は本来何も意味しないために多様で曖昧で矛盾を併せ持ち、胡散臭く神聖で、誇らしく、また恥じ入らせもします。
ないというのはいかに尊いものでしょうか。
ないというのはいかに醜悪なものでしょうか。
「愛してない」と言うことも、愛にある一定の場所・意味を与えます。
あること・言葉は言葉となったとたんに存在し、存在を主張して居場所を得て、価値を持ちます。
人生の重しになる愛。
愛の重しになる重さのない重し…言葉。
愛毒者の好みと愛情
嗜好品には中毒性があり、習慣化して血肉化する性質があります。
生きるということは嗜好(品)であり、すでに習慣化・血肉化しています。
したがって、生が血肉化したひとも、他の生物のように無意識・無意味に生きられます。
すると人は、つねに末期の生中毒者なのかもしれません。
人は美しいものを好む傾向がありますが、美しいものすべてを好むわけではありません。
また、問答無用で誰にでも普遍に美しいものはありません。
これも美は嗜好(品)であるとおもわせるのだとおもいます。
好むは傾向・嗜好・性質。愛すは執着・不条理・機能・構造…なのかな?
好むの先に愛するがあるとは限りません。もちろんあることもあるでしょうが…。
好みも愛も、変質したり対象や傾向が変わることがあります。
愛は理由のない嗜好・好み。
好まない理由をあげ連ねることはできますが、好む理由は挙げられません。または、言葉にしてみたところで違和感があるでしょう?近似値はとれてもやっぱり何か違う!と思わせる感情。
理由がないのは思考ではなく反応だから?
反応が馴化して慣れると愛から好むへと降格して(格なんてないけど)理由づけられるようになるのかな?
愛を刺激する
愛することが反応を刺激するのは、外見や内面のどちらか一方によるとは限りません。
たとえばテレビの向こうの人(外見)を見て愛する人もいれば、たとえばメールや電話など(内面)だけで会ったことがなくても愛する人もいます。
「愛の真偽・真相」「本当の愛」「ニセモノの愛」だとかは定かではないし、そんなものはないとおもうし、これらの例からも、刺激は内外問わず両方からやってくる。
どちらでもない何か他のものの場合もあるのだろうし、人それぞれ。
愛と言葉の愛言葉
道徳は愛からはできない。
愛は道徳にならない。
道徳は愛せないし、道徳を愛せない。
愛は執着。
執着心は習慣のとどくところ。習慣のおよぶ範疇。
愛は知性とすこぶる相性が悪い。
肯定も否定も言葉の前にはありません。
肯定と否定とは、言葉を親に持ちます。
物語・人(生)が言葉を生むのではなく、言葉が物語・人(生)を生みます。
人はただの言葉。
自らの発明品に翻弄される言葉。
何も意味をもたないただ現象が流れるだけの世界に意味を付与する思考する生物―ひと―によって、人の発明品である言葉によって、世界は劇的に、ドラマチックな、物語になった。
愛。
この言葉を唱えれば、この呪を愛と呼べば許される。
時に惑わし、時に隠し、時に破壊する魔法の言葉。
愛の免罪符。
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