monochrome
光色:白黒
黒と白は光量に由来しているとおもいます。なので黒と白とは色ではなく光の程度。
目を閉じればそこに広がるのは黒の世界。
カーテンのない年中白夜の世界に住むひとには白の世界。
このことを意識して目を閉じれば、そこにはもう黒の世界はなく、暗い世界があるだけ。
白と黒の間にはグレーがありますが、目を閉じてもグレーの世界はありません。白と黒は光だけど、グレーは色だから。
影色:陰から影を操る
人は光を求めます。目を閉じていても光を探し出して光に向かいます。
火が人間にしたのではなく、光がわたしたちを人間にしたのでしょう。
「光あれ」
光を操ることは陰を操ること。
これまでは光が主題となってきましたが、これからは影が主題となるのではないでしょうか?
むしろ、これまでがそうでなかったからこそそうなりえるのですが。
今までは(とくに絵画と舞台と建築の世界では)どのように光があたるか、どれぐらい明るかったかが考えられてきましたが、これからは、どのように影がさすか、どれぐらい暗いかということに光があてられるのではないでしょうか?
これらは視点が違うだけで言っていることは同じですが…。
陰の中の光は注目。
光の中の影は隠蔽。
前者は空間に限界を知らしめますが、後者は空間の限界を隠します。
この点において影は空間を広く見せる効果があります。
中心のないmonoモノクローム
闇一色。
一様と一色は等しく無。
人はなにをなしうるでしょうか?
虚像に虚飾を塗りたくり、真理の手前で踏みとどまって、決して一線を超えない。
越せば虚ろが晴れて言葉が意味を失って、なにも成り立たず、なにも存在できず、すべて飲み込む闇であることを見越しているから。
人は無意味の製造機械?
闇の中では決して意味の製造機械にはなれない。
光の中では逆転するネガとポジ。
明暗の狭間でゆらぐ波。
この手の問いに答えがないことはわかっているけど問い続ける。考えること。
言葉が無意味の生産機構。
言葉によって闇から救われているという面もあるけれど…。
真理を光と見るのなら、闇は光。
ただ言葉が違うだけ。光=闇。
光色:一色二様
色即是空を説いた人は空間モジュールが働いていなかったか、ピカソのように自在に操れたかのどちらかではなかったかと空想してしまいます。
視覚における空間モジュールの欠損した世界では、遠近(感)が消失して境界は色と形にしか依存しないでしょ?
さらにそのような視覚においては、闇・夜はその両方を奪ってしまう。
色も形も空間もない世界。
たとえば、今、世界が急に真暗闇、それこそ光の濃淡さえも生じないほどの闇の世界になってしまい、また、体も全く動かなくなるか、自発的にそこを動かないでいたら、初めのうちこそ足裏の地面を感じるでしょうが、その内、上下左右の空間認識が失われるでしょう。
真っ暗闇だから当然、形はなく遠近もない。
このような世界でも、ほんの少しの光の濃淡だけで、感覚が少しはもどるとおもうの。(半分に割ったピンポン球を両目にあてて、そこに強い光を当てると目の前が一様になって空間認知能力が失われるんだけど、光の多少の濃淡で感覚が回復するらしいから、この実験と同じようなことだとおもうの。違いは光で満たすか闇で満たすか。)すると一様には二様あるのかな?光の一様と闇の一様。
周辺色の中心色
球状の鏡の中ではその中心に何もないにも関わらずすべてが収束しています。
至る所から見えるということは至るところが中心であるということ。
どこも中心でなくなることができない。
中心であることから逃れられない。
なんとなくこの感覚が一様の中心のなさ、世界の中心のなさ(これじゃあどこで愛を叫べばいいかわからなくなっちゃうけど…)、自我のありよう、モナド(の窓)の質感にも通じているような…いないような…モヤモヤのうやむやのモジャモジャ…。
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