あるなし関係
私たちはあるということの何を知っているのでしょうか?
それにもましてないということの何を知っているのでしょうか?
驚くほどの何かを知っているのでしょうか?
驚きというより気がかり。
気がかりというより気に障ることなのではないかとおもいます。
驚きはふいをつかれること。
どこかで断定していること。
科学的にすぎやしませんか?
あるなし知らず
あるということの必然性を証明することはできません。
それでも常にあるだろうことは感得しています。
ないはあると同様にその必然性を証明することはできません。
そしてそれを感得することも原理的に不可能です。
ないことについて考えることは不可能です。
ないというときそのないにはあるということを基底にもつないと、あるということもなにものの基底をももたない、ないとがあります。
前者は不在、後者は非在。
すると、とりもなおさずないということについて考えるということは不在について考えるということで、確かにないにはないのですが、いつの間にか(といってもないということについて考えるときのことなのですが)あるということについて考えていることになります。
あるなし依存
ないと困る
あるというのはないを前提とした充足。
ないというのはあるを前提とした欠損。
そこに何かがあるというのは、元々そこには何もないはずだということを前提としています。
また、そこには何もないというのは、元々そこには何かがあるはずだということを前提としています。
ここでいわれる「はずだ」というのは、予測というより「べきだ」あるいは「でなければならない」という強制に近いもののように感じられます。
ないない
「~である」というのは本質を示すいいですが、「~でない」というのは本質ではない、本来的ではないということで、「ないでない」は不在を表し、本来、在であることを示します。
対して「~がある」というのは実存を示すいいですが、「~がない」というのは実存がない、そもそもないということで、「ないがない」は非在を表し、非在はあるに包含されず、あるとは対極となり、また自身によってあるという圏域から自らを排他的に排除されるようにはたらいています。
さらにないというのは、当然ないということなので、ないという圏域(ないについて考えてしまうのは不在であるので、不在の圏域なのかもしれませんが)からも自らを排除し、自ずからみずからの不可能性、ないこと(在でないこと、在とならないこと)を示しているようです。
パル目ニデスか?
パルメニデスさんが何処まで考えていたかはわかりませんが、「あるものはありないものはない」といったほんの数文字に託された意味は、この文の自明さ、単純さ、質朴さのゆえに当然すぎて顧みられず、当然だと思わせることで期待を裏切り、非文明、未発達な文化の中で生まれたものだと現代人に思わせる裏で、実はこれほどの意味を内包しているのではないかと考えさせられます。
ただしこれは考え過ぎなのかもしれませんが…。
それとも思慮足らず?
積極的ない志向
事実という言葉は視点を無視した包容力と、それ以上に、それ以上の訴追を一方的に拒否する暴力を兼ね備えています。
「存在=力」なんじゃないのかなぁ〜?
なにかがあるということがあるのではなく、あるということがなにかをあらしめる…のかな?
なくなっていくというあり方に驚くのは、あるということに驚いているのではなく、ないということに驚いているのではないでしょうか。
存在驚愕は実は非存在驚愕なのではないでしょうか?
ある(あるいはない)ということをどのようにとらえるかによってその人の哲学は決まる……とおもう。
また、原初において何を信じるか。これがその人の学となり信仰となる…………のだとおもいます。自信はない!
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