未来を追い越す現在
未来操作
正確な未来予測は形態をとらない現実であり、過去と未来の距離を極限まで縮め、終いには現在となります。
こうして、アイデアが実現する世界から、アイデアはすでに現実である世界へと移行しつつあります。
流行色は一部のひとによって二年前に決められて、実際に流行るように仕掛けられます。
強力な現実操作は未来予測の域を超えた未来操作です。
実際に建築物を建造する前に、あたかもある場所に実在しているかのような現実味のある映像をSNSなどで広く公開し、それを多くのひとが受け取って共通認識をもったとすると、未来において物理的に形を成すはずのものが、ただ物理的に形を成していないという違いだけで、すでにそこにあるものとなります。
ここで言う「そこ」というのも、物理的なある空間を指し示しているのではなく、仮想上の「そこ」、多世界のこの世界と瓜二つの他の世界での「そこ」といったようなところのことです。
このような場において、過去は未来であり、未来は過去です。
そしてそれを認識しているのは現在です。
現在を失い"ひと"を失う?
現象の数値化と演算の高速処理化などにより、正確な予測が期待できる世界になりつつあります。
ひとは予測の正確さを求める一方で、それを捨てさることになど思いも及びません。
正確な予測はすでに判断・結論とおなじです。
予測されるもののなかから最適解を選ぶだけですから機械任せで済みます。
するとひとは判断を機械に委ねるようになります。
正確な予測ができるからといって判断・決断・結論を機械任せにしてもいいものでしょうか。
すくなくとも、そのとき人は考える機械にもなれません。
機械でもないひととはなんでしょうか。
ひとに人間性を組み込む最後の砦のようにおもわれる、数値に変換されない不確定要素、数値には決して還元できない止むことのないゆらぎといったようなものは、ひとに不安を残す一方で、ひとをひとにとどめているたよりない一糸のようでもあります。
現在と未来の融合。そして逆転劇の開演。
人のモラル、社会正義、世界平和の推進のために、欲や悪といわれるものからくる犯罪や不幸を回避する抑止機構として警察機構がありますが、よりすすんで、人の思考や行動を監視する映画のような世界を推し進めようとする動きがおこるかもしれません。
そのときそれを行うのは恣意的ではないものとして機械・コンピュータが利用されるでしょう。
しかしそれはやめておいた方がいいと思うのです。
恣意的ではない分、厳密に過ぎて拘束されない者がいなくなると思うのです。
つまりみな咎人となるのです。
これでは窮屈すぎると、プログラムを変えようとしても、すでにつねに監視されていますので、すぐに発覚し、地下に潜ろうとしても、団結して立ち向かおうとしても、おそらく生まれたときにICチップなどのようなものが埋め込まれるでしょうからそれもできず、このときの体制の変革を目指す革命のような動きも、機械による機会・機械判断を変えることはモラルや社会、正義を犯すものと判断されて排除されるでしょう。
こうして人と機械の立場が逆転します。
現在を侵食する未来
リアルな画像データが数値にすぎなかったとしても、映画『マトリックス』やアニメ『攻殻機動隊』の電脳化や漫画『NARUTO』の無限月読などのように、人間がその仮想世界に生きられるようになったとしたら、それはもうすでに現実ではないでしょうか。
これまでは、アイデアはこれから実現されうるものでしたが、このような世界では、アイデアは思い描かれた時点ですでに現実です。
平和であるということも最適化され、予測不可能なことが起きづらい、起きても最も効率のよい解が選択される、つまり問題が生じず変化が起きない閉じた系となります。
閉じた系で変化が起きないのなら、硬直化し、運動がおきず、死んでいます。
こうして退屈な平和がもたらされます。
このとき退屈を知る者がいればの話ですが。
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