「情報」思考
「情報」書き換え
情報という語は曖昧であるために汎用性が高く便利な言葉です。
思想家や哲学者の唱える主要概念を「情報」という語に置き換えてもそれらしいことを言っているように聞こえます。
場合によっては理解を損ねないばかりか、新たな見地を開示することさえあるように思われるほどです。
コンピュータの世界で変わる情報と変わらない「情報」
さしあたり考えやすいのは情報を扱う機械、コンピュータです。
コンピュータにおけるハード上のデフォルト状態・初期状態は、メモリにせよハードディスクにせよ、フォーマットされたなにも書き込まれていない状態です。
フォーマットされた状態というのはなにも書き込まれていないというだけで、まっさらな状態というのとはすこし異なり、新たに情報を書き込めるように均質化したり形式を整えた状態のことです。
ここにデータ・情報が書き込まれていくとムラ・世界が現れて広がっていきます。
広がるとはいってもそのときに変わったのは情報・数値だけで、その空間を占めているものが異質な他のなにかになったわけではありません。
また、可視領域では2ビット情報にみえても、ミクロの領域では4ビットなのかもしれませんし、さらにミクロの領域では8ビットなのかもしれません。
見た目にはなにかが増えたり減ったりしているように見えても、情報・機械的には空間を満たすなにかがあるわけでも、なにかが増えたり減ったりしているわけでもありません。
ただ情報が空間を満たすのとは違う形で占めているだけで、数値だけの違いです。
「情報」に上書き。「情報」と上書き。
情報量が増えても、その増減にかかわらず、それらの情報が占める範囲はかえなくともよい・かわらないということは、情報の複雑さと、その情報が占める範囲・量・長さは比例しません。
光の「情報」変換
情報置換の世界においては情報が世界であり、情報が場です。
場は情報により成り立っており、情報・数値により場が占められています。
すると光は伝わるのではなく、情報が書き換わっているだけです。
データ伝送速度・通信速度の限界が光速。
光速を抜けない、光速度不変は世界が情報・光だから。
光・情報のなかに光・情報をくわえても光・情報のまま。ちょうど川の(流れの)なかに(一滴の)水をくわえるように。
質量の「情報」変換
質量は場の数値・複雑さ・情報量のことです。
わかりづらければ濃度とおもっていただければよいでしょう。
しかし、濃度と言っても、なにかが空間を占めているのではなく、濃度を表す数値のことです。
質量は情報・光の集合体。
また引力や斥力は数値を均質化する過程です。
極端に情報・数値のおおい点がブラックホールです。
重力は(複雑さという)情報量と相関・比例関係にあります。
空間の「情報」変換
空間は情報であるとして、試みに各点に分けて考えてみます。
空間のそれぞれの点には許容できる域値・限界量があって、その量は一定だとします。
許容量を超えた情報は先に送られる、隣接する点に情報が渡されるので、物や光は進んだり広がったりします。
時間の「情報」変換
時間は情報の変化・推移・移行のことで情報そのものではありません。
情報であるとするなら容量が0のタグのようなものとします。
時間を知覚できないのは、時間はタグであって情報量が0だからです。
望遠鏡を覗いて1光年離れたところを見るとします。
1光年離れていますので、見える景色は、その場所の今ではなく一年前の過去の景色です。
現在において過去を見ることになるのですが、その1年分の出来事はどこに隠されていたのでしょうか。
このようなことを想像するとき、きまってわたしの脳裏にはセル・オートマトンやフラクタルの拡がるさまが想起されて、過去の出来事は情報として波紋のように書き換わって広がっていくのではないかと思うのです。
ある特定の場所に情報が保存されるのではなく、たえまなく伝わり広がり続ける能動的なものなので、2光年先では1光年手前でみられる景色はみられないのです。
天文学の「情報」変換
二度目以降のフォーマットでは完全に情報・世界を消去することはできず、どうしても情報の痕跡が残ってしまいます。
それがサイクリック宇宙のふるまいをみせます。
「情報」変換という方法
思想・哲学分野でも、存在・時間・力・意志・愛・光・波・法などなど、お暇なときに「情報」と置き換えて遊んでみますと、案外あらたな発見をするかもしれませんよ。
難問に行く手を阻まれて、考えても考えても打開策がみつからないときには、数学者は物理学、文学者は数学など、異分野に触れることで光明が見えたりしますし、問いを問いかえることで道が開かれるかもしれませんから。
数学史を紐解けば、難問は問いかえるべし!ということが示されています。
どのようなこととおなじなのか、どう言い換えられるのか。
学生の頃の国語の問題とおなじように、同じものさがし!
問題自体をひたすら一途に考えるのもいいですが、それでわからなければ、表現をかえてみましょう。
国語の答えは問題用紙に書かれているといわれるのはそういうことなのではないかな〜とおもうのです。
四書五経が重宝されていたのは、そこに書かれていることを適用できるような状況にひとは陥りやすく、おなじことを繰り返しやすいのだから、そんなときにはこんな対処をされたがよろし。と教示してくれているからではないでしょうか。
勉強には国語力が大切だと言われますが、それはひとつのこと、ある問題を多角的にみる目が大切だといっているのだとおもうのです。
多角的にみるために言い換えて、問いかえて考えてみましょうと。
こちらもいかが?