あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

資本

 資本capitalはラテン語の頭caputを語源にもち、最も重要なという意味があります。最も重要なものは個々異なると思いますが、それが重要であると認識して断定するためには、最低限生きていなければなりません。個々異なりますが、それでも生を前提としていることから、万人に共通する重要なもの、つまり、万人に共通する資本は、生なのではないかと思います。

 

 ヒトはなにをしなければ生きられないかを考えてみますと、食べることです。なぜ食べるかといえば、生きるためです。そして人は、なぜ働くかといえば、食べるためであり、生きるためです。このように考えると、「生きる=働く」という等式になっているように見えますが、働くことは食べるための手段の一つです。生きることは食べることであって、食物は採集や狩猟、または交換・互恵・略奪など、その方法は直接的でした。しかし集団や分業の進展が不労所得をうみ、食べるということに直接関わらないことも仕事として仕立ててきました。これは善悪ではなく功罪です。人類の生存率を高め豊かさを提供してきましたが、一方で、食から遠ざけてきました。また公共心を希釈し利己心を促進しました。

 

 今まさに死なんとする人に、生存の至上性をもちだして、「生きろ」といいますが、労働が生存に勝る社会においては違和感があります。つまり、「生きろ」というのは「働け」と言うのと同義か、それ以上のものとなっており、生存の目的が失われているからです。「なんのため」が失われたままに生存が目的化しています。生ではなく、生きることを自己目的化しています。ただ生きることが至上命題となった状態では、なにをもって生きろと説得しているのか、また、働くために生きるのか、生きるために働くのか、その帰着点がありません。ここからは生きる意味も働く意味も汲み取れません。

 

 習慣により「生きる=働く」のなかでも喜びを感じて生きていける人もいます。芸術家や職人など、労働ではなく仕事に生き、意味を生きられる人がいます。労働が習慣となり意味となれば、意味を生きられるので、「働く=生きる」であっても、充足感をもった豊かな生を生きられます。「働く=生きる」を生きられない人は、無意味を生きることとなり、徒労を生きることになります。人の生はシーシュポスの受刑のような徒労ではありますが、不条理な悩ましい幸福を生きられる人は、微笑むことができるのです。

 

 善悪も評価も恣意的で、後に覆ることがあります。覆らないなにかを資本に据えなければ、後世に禍根を残すでしょう。変わらないなにかとは生です。恣意的なものも生から生まれます。生なくして事実以外のなにものもないのです。生に価値を付与できなければ、すべてが破綻する実に不安定な土台です。

 

 ヒトと動物は思考の可能性によってわかたれます。世界に意味をつけることができるのは、思考をもつものだけです。世界はあるがままで意味をもちあわせていませんが、言語を獲得し思考することができる生物が誕生したことで、世界は意味をもちました。ここでは思考する生物をヒトと代表していますが、意味をもつのがヒトだけであるのなら、すべてヒトだけがもち、ヒトだけがそれを実現しえるものです。弱肉強食は自然の摂理ですが、それは良し悪しではなく自己保存を表す言葉であり、善悪をもたない動物の意志です。

 

 生は普段意識すらされない忘却されたものです。生きてある事実は変えられません。人は言語により思考します。思考は生きる意味を見つけられないかもしれませんが、子どものため、生きるためといったような、いわば擬制意味を、生きる意味とし、時に生きる糧として生きています。これらがなぜ擬制であるかというと、それらは「なぜ生きているのか、あるいはなぜ生きたいのか」という問いの答えであって、「生きることに意味があるか」という問いの答えではないからです。「~のために生きている」というのは、生きるということがどういうことであり、どのような理由があるかに答えているわけではなく、生きるための目的や、死なない理由であって、生きるということの答えではありません。いったんこれを意味として措定すると、この目的を達するための方法として、労働が当然視され、目的化されてしまいます。

 

 価値基準が生産力や効能など、なにを基準としているにしても、その基準に照らし合わせた評価により優劣がつけられます。すると、障害を持つ人や生産性の低い人は価値の低い人、あるいは価値のない人とみなされ、人の尊厳が損なわれます。これを是正するために保護したとしても、前提となっている価値基準や評価基準が改められたわけではありませんので、尊厳の毀損は保留されています。

 

 スティグマには聖性があります。アメリカ大陸の先住民、ネイティブ・アメリカンは、体の不自由な仲間や同性愛的傾向をもつ少数者を追放することなく、むしろその差異の希少性に聖性を見出し、ダンサーやシャーマンなどの要職におき敬いました。現代のスティグマからは、聖性が剥ぎ取られているようです。

 

 言語により想像し、概念を創出することで、人間は他の生物とわかたれました。そしてまた、その能力によって、他者の存在や能力の可能性を見晴るかし、思考できずテロスの創出が不可能に思われる人も、その可能性によって人間性が担保され、尊重されます。保護や性格など、社会や人から付与される状況や性質によらず、人であるという、ただこのひとことにおいて、人の尊厳が担保される相互承認が肝要です。

 

 思考する動物がヒトなのではなく、思考する可能性をもち、可能性を思考するのがヒトです。それは言語によってなされます。人がヒトを創造します。その可能性が人の資本です。

 無限後退する信用の先取りが資本なのではなく、無限後退する思考の可能性に対する信用が資本です。