あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

日本


神話と権威からみる正当性
~ 天皇はなぜ日本そのものなのか ~

神話に秘められた国の正当性

 国の正当性を証明するのは歴史です。その歴史は神話より現在にまで至ります。神のいない神話はなく、神話のない神はいません。神話は神の話ですから神の登場しない神話はありません。神話がなければ神を神とする根拠が無いので神話をもたな神もいません。神話をもたない民族はなく、起源を語らない神話はありません。すべての民族が神話をもつということは、すべての民族が神を戴いているということです。つまり民族と宗教とは不可分だということです。政は祭りから発生しています。したがって宗教を政治からは切り離せないのです。政治の根には宗教があります。宗教が政治利用されているのではなく、政治が宗教によって動かされているのではないでしょうか。

 

 中国における天や西欧の王権神授説など、国の正当性を保証するのは神です。国にとって神話は信仰のためというより正当性のために重視されます。その国がどのような歴史をもち、どのような建国の経緯を辿り、そこに住む人はどこから来て、その世界がどのようにつくられたのか、忘却の彼方にある創世の過去から今に至るまでを明かし、その国が太古よりそこにあった正当性を示すのが神話です。

 

 また神話が世界の起源からはじめられるのは、それ以上遡れないようにするためです。神話が世界の起源より記述されていなければ、さらに古い時代には自分たちの祖先がそこにいて奪われたのだと主張し、正当性を崩そうとする国が現れるでしょう。

 

 神話を否定することは古代から現代まで、その民族がその地にいたという歴史を否定し、一つの一貫性を断ち切ることではないでしょうか。神話を否定してなにをもって正当性の根拠を示すというのでしょうか。神の不在、つまりは神話の不在は正当性の不在です。神話なくして国は存続しません。

 

 とはいっても仏教には創世神話がありません。その仏教を国教とする国があるのだから神話をもたない国があると思われるでしょう。現在、仏教を国教とする国はカンボジアとブータンだけですが、両国ともに仏教とは別に創世神話があります。またフランスではライシテにより宗教が公共から排斥されていますが、国内には依然カトリックが多く、近世までは王権神授説による王の専制政治が行われており、その王を選出する神の創世神話が聖書の『創世記』にあります。さらに共産主義社会を理想とする社会主義国は「宗教は阿片」として神を否定し厳しい宗教弾圧を行ってきた無神論国ですが、社会主義の多くは失敗し、なおかつ今日も残っている社会主義国は神との和解を図り宗教と共存しています。資本主義は有神論から発し、共産主義は無神論から発しますが、社会主義が失敗した要因の一つは神話が不在で正当性を維持できなかったからではないでしょうか。

 

 国の変革の兆しは神話に現れます。ユダヤ教とキリスト教とイスラム教とは同じ神を戴く宗教です。旧約聖書のなかでも天地創造からモーセまで、『創世記』から『申命記』までは共通する正典です。同じ神から三つに分かたれた宗教の分岐点は旧約聖書の後の話であり、その違いが現代にも引き継がれ国の形にも影響しています。

 

 現代においても興亡する新興宗教は既存の創世神話を利用します。新たに天地開闢から神話を創造しても歴史も根拠もないために、それを信仰する者は現れないのです。そのため世界と人類の創造のところまでを借用し、創世神話とみずからの教えとを一つなぎにして正当性をえようとします。

 

 科学は数と現象への信仰がなければ成り立たない神話です。世界の姿を説き明かし、自然の摂理を語る役割が、宗教から科学へと移行しつつあります。しかしそれでも世界の起源や終焉などについては実証不可能で再現性がないため形而上学にとどまります。たとえ科学的に世界の起源が解きあかされたとしても、神話の世界の起源を塗り替えることはできません。むしろ科学の世界の起源が神話の世界の起源に塗り替えられることがあります。世界の始まりが神の一撃と形容されるように。

 

 神話の変容が争いの火種の予兆だからといって、変化を力で押さえ込んでしまっては、その力が争いの火種となります。神話は国の安定を示す隠れた目安です。神話の変容を防ぐためには神話を正史として確立し伝承することです。

 

 神話の変容であっても、すでに神話が確固とした地位を占めた社会においては、ソポクレス、アイスキュロス、エウリピデスの古代ギリシア三大悲劇詩人にみられるように、神話の変容ではなく神話物語であると当然のこととし認知されるため、国を脅かすものではなく、むしろ知識の共有を促し強化するはたらきをもちます。つまり神話の確立されている社会においては、神話の変容は国力の強化に貢献することがあるということです。当時の詩劇は神話を貶めるものではなく、神話を讃えるものであり、道徳心や感動を呼び起こし、人びとの連帯感を強める第一級の娯楽であったのですから。

 

 日本の神話が歴史書とされるのは、神代より万世一系の皇統が今も続いているからではないでしょうか。そしてまた、そのために神話が神話とならず歴史にとどまっているのです。古事記や日本書紀などの神話から天皇史へとつながり現在まで続く、神話から一つなぎの歴史です。

 

 記紀が編纂されたのは皇統の正統性を明らかにするためだったのではないでしょうか。これは内政においては国内の認識を統一して国をまとめ、外政においては独自の来歴と文化があることを示し独立を保つためで、まさしく「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」だといえます。天皇に対し税金の無駄遣いであるだとか、外交上なんの役も果たしていないなどの言説が一部で見られますが、天皇は内政においても外交においても日本の要です。神代より日本を治してきたのは天皇です。

 

 信仰の自由や政教分離を謳っているにも関わらず、日本国憲法第1条は天皇についての記述です。しかしだからといって日本は神道を特別視しているわけではありません。憲法に記述されているという点ではそうでしょうが、成文化されていなかったとしたらどうでしょうか。権威は権力を付与されやすく、権力は権威を欲しやすいものです。権威と権力とを明確に分けることを明文化することで、逆説的に権威と権力の集中を抑止しています。これは偶然の出来事だったのかもしれません。権威と権力とを分けたことで、種々の諍いがすくなくなり、後に伝統として引き継がれるようになったのかもしれません。いずれにしても、王朝が交代していないので、優れた政体と判断であったといえます。

 

 仮に天皇が一般国民になったとします。一般国民となった天皇が立候補し国会議員となり、首相となったとき、権威と権力が集中します。あらかじめ皇族の被選挙権を規制するというのでは、個人の権利の侵害であり、権威があると認めて特別視しています。

 

 そもそも政教分離は英語でSeparation of Religion and StateではなくSeparation of Church and Stateであって、国教分離のことです。フランス語においてもReligion(宗教)ではなくEglise(教会)との分離が謳われています。今日においても政教分離を謳いならが徹底されていないのは、政教分離が政治と宗教の断絶ではなく、宗教権力の政治介入を防ぐ国教分離のことだからです。政治と宗教の断絶した政体をとっている国はありません。これは国の信仰の話であって個人の信仰の話ではありません。個人の信仰は自由です。

 

国体の保障する自由

 自由や平和を保障しない国はありません。どの国も自由や平和を望んでいます。それにも関わらず、文化や利害が異なるために対立は起きてしまいます。努力は必要ですが、人も国も個々さまざまで平等を実現するのはほぼ不可能です。極力争いを避け、理想を現実のものとするように務めるのが国です。そのような国の理念をあらわすものが国体です。

 

 国において国体ほど重要なものはありません。普段意識されない国体が国の危機に際して高まるのは、国体のもつ領土、国体の上での個人の自由が脅かされていることを感じとるからではないでしょうか。ナショナリズムはナショナリズムが揺すぶられたときに高騰するということです。

 

 アメリカ独立宣言において法の下の平等は「~ all men are created equal, that they are endowed by their Creator ~」と神によって人類は平等に創られていると表されています。

 またラ=ファイエットがアメリカ独立宣言を参考にして起草した人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)Article 6では「~ étant égaux à ses yeux ~(英:~ being equal in the eyes of the law, ~)」と法の眼前の平等と表されています。

 そして日本国憲法第14条の英文では「All of the people are equal under the law ~」と字義通り法の下の平等と表されています。

 しかし日本国憲法のGHQ原案と草案ⅩⅢにある法の下の平等は「All natural persons are equal before the law.」と法の前の平等と表されています。GHQ草案から日本国憲法が作成されるどの過程でbeforeがunderに変わったのかはわかりませんが、underには覆われている感じや下方という意味合いがあり、平等が法に抑圧されている感じがします。

 アメリカ独立宣言では、神は人類に平等という機能を付与してつくっている、フランス人権宣言では法の中での平等、GHQ草案では法の前での平等を表していて、少なくとも人は法と対面しています。

 Equal justice under lawは法の下での平等な正義や裁判を求めているのでunderが適していて違和感もないのですが、日本国憲法の英文にあるような表現には抵抗感があります。そればかりか、法と人とを意図的に対立させて抵抗を誘引するようなところがあります。

 

 国体は国によって異なるので国体と自由との関係も異なります。フランスは国体の上の自由、社会主義は国体の下の自由、日本は国体と一体の自由です。フランスをはじめとしたヨーロッパ諸国の多くは、君主と対立して勝ち取ってきた平等であり、その上に自由が築かれています。社会主義では平等な世界を構築するために平等の名の下での自由を計画します。日本は君主を戴いてはいますが、君民一体の国体であるため、君主による平等はすなわち民による平等です。

 

 国民個人の土地や財産の所有は国の保障あってのものです。国の保障なく所有権を主張したところでその正当性を保障するものはありません。個人のみに依拠する正当性は個人のみに適用されるもので、公には認められず不当であるとみなされます。その個人の正当性が蹂躙されたところで、蹂躙されたと思うのはその個人だけです。

 

 昭和天皇が共産主義の拡大を危惧されたのは、自由や平等を志向せず特定の思想に偏重したからではありません。君民一体の国体を守るため。つまり国体の下に国民や自由をおかないように、皇統の大御心を維持するためだったのではないでしょうか。日本の国体が君民一体であるから、国体や天皇を批判したとしても許されるのです。またそのような者でも、国民であるというだけで天皇は受け入れて下さるのです。日本は他に類をみない自由な国です。しかしそうであるからこそ共産主義に無自覚のうちに染まりやすいともいえます。

 平等という言葉の影で静かな宗教改革が進行しています。無政府主義や共産主義は、国民主権の衣を着て、いわば人類主権を実現させようとしています。意図的に変容させようとしている者もあるのでしょうが、無自覚な人が多いように思われます。自類主権の理念は高くとも、その先に広がる世界は自然状態への回帰、あるいは実現です。はたしてその世界は平等で平和なものでしょうか。国のないグローバル化とは均質化に他なりません。このリヴァイアサンは君主制も民主制も違いはなく、ビヒモスなど存在しえません。

 

 多様に存在するいずれの神話も世界の起源にまで言及しているので神話を統一することはできず、地球規模の統一国家は実現しないということも神話は暗示しているのではないでしょうか。

 

 国が倒れればその国で所有している土地は保障されません。その国を倒した国にとって先住者の土地を保障する義理はないのですから。いくら自分たちが何代も前からそこにいたのだと訴えたところで、国が倒れてしまってはその根拠を示すことができません。仮にその土地で発掘された名の刻まれた刀剣が見つかったとしても、それはそこに人がいたという証拠でしかなく、その人とのつながりは示されません。

 ただしQu'est-ce que la propriété所有権とは何かということは、未だその共通見解がありませんので、難しいところがあります。

 

 伊藤博文や井上毅らが憲法を起草する際、一見近代化や規則とは無関係にみえる記紀を研究したのも、日本の文化や伝統、歴史や国柄を読み解くとともに、正当性を明らかにするためだったのではないでしょうか。『憲法義解』第二十七条の項に「所有権は国家公権の下に存立する」と私有財産は国の保障の上で成り立つと解されています。

 鎌倉武士の一所懸命は幕府に土地を安堵してもらうためのものです。幕府の正当性が崩れれば領地は保障されません。元に滅ぼされていたらその領地は功績のあった元の武将に分け与えられていたでしょう。

 個人の権利を保障するのが国の正当性であり、国の存在理由であるということはジョン・ラスキンをはじめとする人たちも指摘するところです。

 

 領土問題は物理的な土地の問題なのではなく、歴史を否定され正当性を奪われることがより問題です。二国間で領土についての対立がおきるとき、歴史についても言及されます。真に二国間で歴史認識が対立していることもありますが、領土や資源を獲得するために、正当性を崩す方便として歴史がもちだされることもあります。自国に有利なように歴史をねじ曲げたり、実効支配したりする国がありますが、これは正当性を歴史に求めることができないためだからでしょう。正当性を力でねじ伏せて、なかったことにしようという腹つもりです。歴史は神話ほどないがしろにはされていませんが、実害のない観念的な問題であると侮ってはなりません。このような問題に対して、平和的におさめるためには、日本の正当性を強く国際社会に訴えていくとともに、争わないための備えが必要です。確固たる正当性をもつ日本が危機にさらされるのであれば、それは世界の危機でもあります。なぜなら日本は世界で唯一神代より一系の皇統をもつ世界最古の国であり、日本ほどの正当性をもった国は他にないのですから。日本の正当性が揺らぐということは、いずれの国の正当性も保たれず、世界秩序が乱れます。神話や歴史といった正当性だけでは国は守れないことがあります。争わないための国防は必要です。

 

一般意志の表象となる権威

 学界の権威といわれる人がいます。その人はその分野において、後に標準となる画期的な発見や発明をした人のことです。標準を示すことから、妥当性の基準や正当性の象徴とみなされます。

 

 権威と似た言葉に重鎮や大御所といったものがありますが、重鎮や大御所は正当性ではなく影響力を強調した言葉です。個人が権威を不当であるとみなしたとき、その個人において権威は権威でなくなります。一方、個人が重鎮を不当であるとみていても、重鎮は重鎮のままです。重鎮は権威より権力に近いものです。

 

 権威は自発的な信託を促すもので、信託を強要することはできません。権力は力による強要で強制することができ、またそうする力のことですが、信託を強要することは力の行使であり、自発性を無視しているので、それは権威ではなく権力となります。

 

 権威の威光の及ぶ範囲は、ある集団というふうに限定条件がつきます。そしてその集団の中心から離れるほど威力は弱まり、埒外においてはまったく威力が及ばないこともあります。神仏像の破壊や指導者の殺傷などは、その集団の帰属者で、その権威を認めている人からはなされません。適例ではありませんが、例外的に三島由紀夫の『金閣寺』溝口のようなことはありますが。権威は帰属意識と強い相関関係にあります。

 

 権威を否定するものにとっては、その権威はその人にとっての価値基準でも行動規範でもないということであって、なおかつその人にはその権威とは異なる価値基準や行動規範を示す権威を戴いているということです。その人がなんの権威も戴いていないということではありません。無神論者は権威を戴かないということではありません。無神論者は無に正当性を付与し、価値基準として権威とします。あるいはそのような自己を基準とし、権威とします。また憲法を権威として戴いているように見える集団がありますが、憲法は権力を記述したものであり、根底にはその価値基準となる権威が潜んでいます。

 

 権威の見解は後に覆る可能性があり、またその分野の標準ではあっても他の分野の標準ではありません。さらに、権威は強制できません。また権威は直接ではなく間接的に感得され、正当性をもたない権威の出現もありうることです。これら権威の特質を綜合すると、権威を権威とし、その正当性に信託するかどうかは各自に任され、結局のところ、それを認めるかどうかは信仰です。信仰ではありますが、権威がその権威を保つことができるのは、ある集団における価値尺度であり、妥当性のよりどころであり、正当であるとみなされる一般意志の象徴であるからです。

 

 16世紀ポーランドの大宰相ヤン・ザモイスキは選挙王制で連合共和国という政体をとっていた自国を「国王は君臨すれども統治せず」と評しました。政体によって王から権力を削ぎ、共和国の権威としたのですが、日本でははるか以前から執られてきた政体です。

 

 権威と権力とが一極に集中すると、片方に瑕疵が生じた場合、もう片方も傷つけられます。権威が力を行使しなければ権威にとどまりますが、権威が指示をすれば権力へとかわります。

 

 日本書紀において欽明天皇は仏教をとりいれるかどうかの意見を求めています。日本書紀は日本の正史であり、天皇の独断を聖断として絶大な権力を誇示してもよさそうなもので、むしろその方が聖性を付与できそうなものですが、それをしていないことから、なにかしらしがらみがあって配慮し憂慮すべき事由があったとは思われないので、実際にそうされたのだろうと思います。ここにすでに権力と権威とが二分されており、なおかつ異文化をとりいれる度量の広さがみられます。権威が権力をもつと聖性が失われ俗物となることがありますが、多少の例外はあるにせよ、皇統は権力を遠ざけて清らかであり続けようとしてきたことがうかがえます。

 

 皇室は権威を守るための方法の一つとして、知識を利用したと考えられます。他国との交流のため、また他国を知って他国を抑えるために仏教や儒学を取り込み、近代化を図ったのでしょう。古代日本の朝貢のように、儀礼や国際常識といった特殊な知識を要する場面があります。この特殊な知識を有することで権力は得られずとも権威を保つことができたのではないでしょうか。公家社会独自の儀式や作法を保存することで、武家社会の中でも武力によって滅ぼされることはなかったという面もあったでしょう。

 

 源平交代説が室町時代、殺伐としていく時代の中で説かれだし、織田信長が平姓を名乗り、徳川家康が源姓を名乗ったのも、三国志に記される劉備が漢の皇帝の末裔を称したのも正当性をえて大儀を示すためだったのでしょう。

 権威は教育によっても広まります。徳川慶喜が錦の御旗で退いたように、権威は権威とみなす者には影響力があり、権威とみなさない、あるいは権威がわからない者には影響力が及びません。

 

 権威authorityは著者や創造者を表すauthorが語源です。絶対的な権威は創造者を起源としています。絶対的権威は神です。神が絶対的権威であるのは、創造主であり絶対的な力を有するからですが、絶対的権威であり続けるのは、力を有していながらも、その力を直接行使しないからです。神による直接統治は支配と抑圧とをもたらし、支配者と被支配者という対立関係となります。対立する場合、一般意志として受容することはできず拒絶するでしょう。したがって絶対的権威は無私であることを望まれ、またそれゆえに絶対的権威であり続けます。

 

 民衆は権威に権力を預けたがります。権威は中立中性で見たいものを見せるだけで特別なにかをするという恣意的なものではなく、集団や個々の姿を映す鏡のようなときがあります。

 

 権力は法によって権威を牽制し、権威は民意の反映として権力を牽制します。また正当性の保証は権威によってなされ、権威の保証は民衆の意志によってなされます。民衆が権威を否定するときに正当性も否定され、これまでの自己も否定されるのです。権威には、その集団の意志を映す鏡のようなところがあります。

 三種の神器のうちの一つが鏡であることは、魔境なのかもしれませんが、暗示的であると感じてしまいます。

 

 王が命じる戦いは権力の行使ですが、民衆が王の権威のために立ち上がるのは、王の意志というより民衆の意志です。それではといって王が戦を指揮するときでも、それは王の意志というよりは民衆の意志です。このとき権威は王個人の意志の反映というより、そのような王を望む民衆の意志を反映しています。またこのとき権威が命令するのではなく、私の望む権威はこのように命じるだろうと推測し、自らを権威の代弁者や予言者であると信じる者が現れます。その者が権威の名の下に命じるとき権力は行使されます。提案でとどまるのなら代弁者にとどまりますが、神の名をかりて命令を下せば権力者となります。権威がその民族や集団を映す鏡であるとき、権威の喪失は民族の意志の喪失に等しいものです。

 

 権威は正当性であり価値基準の象徴であり、また権威が私を映す鏡となることがあります。そのとき権威を否定することは自己否定されたに等しいものです。したがって相手の権威の尊重を強制されること、つまり権力による権威の強要は受け入れれば自己否定であり、拒絶すれば肉体の消滅をともないかねない、どちらにしても自己否定を迫る暴力です。自分の権威を尊重するとともに相手の権威を尊重しなければなりません。

 

 イギリス人がエリザベス二世を批判することは自己批判ですが、他国が批判することはイギリスの否定です。他集団の権威は受け入れるしかありません。それを拒絶し否定することは、その集団の否定であり拒絶を示します。他集団に権威を否定されるということは、集団として認められていないということであり、ましてやそれが国を象徴する権威であれば、国として認められていないということを表します。

 

 他国に権威を送るというのは、権威つまりその国の一般意志の象徴が殺傷されたり拘束されたりする可能性がないとはいえない状況にさらすことができるほどにその国を信頼し尊重しているという証明になります。反対に他国の権威を迎えることは、その国に信頼され尊重されているという証明になります。

 

 マルセル・モースのみたように贈与には義務が伴います。他国の一般意志の象徴である権威を厚遇し、無事送り返すことも贈与に伴う義務の履行とみることができるのではないでしょうか。

 相手の権威は贈与として現前します。贈与を受けとらず拒絶するという態度は「贈与の霊」を停滞させ、不吉な予兆として顕在化します。

 

 権威と権力とが分立していて、なおかつ民主主義国である場合、権力はその国の一般意志の象徴ではなく、一般意志の実務の代行者でしかないので、権威ほどの影響力はありません。代行者に代理はいても一般意志の象徴の代理はいないのです。

 

 国の権威が内圧によって絶えた場合は、国の正当性の否定ですから、国土や国境がかわらなかったとしても、前の国の正当性を否定しているので、隣国と国境線について歴史や主張について一から協議し同意を得る必要があります。またその際、これまでとは異なる他の正当性をもって一からつくりあげなければならないので、これはもうすでに別の国です。旧来の憲法を引き継いだところで、同じ憲法を用いる別の国として扱われるでしょう。

 

 国の権威の移行劇は前権威の否定となります。全否定ではなかったとしても、全肯定ではありません。全肯定であれば移行する必要はありません。国の権威の移行劇には争いが伴います。国内的には内戦、外交的には戦争に発展しかねない状態を招きます。特に近隣諸国が国土を狙っている場合には、これまでの正当性を否定しているのですからつけ込まれてしまいます。

 

 その国の権威を廃するというのは、外国においては王や神を廃することです。たとえば、イギリス王室を廃するとなったら賛成する人もいるでしょうが、多くの人は反対するでしょう。なぜなら王室がイギリスを統治し統合してきた歴史、またイギリスが保障してきた信仰を否定することだからです。そもそも権威は個々の自発的な信頼によるもので自然発生的に生じるので、加えたり廃したりという対象にはならないのですが、もし王室が廃されたとしても、それは王室制度が廃されたのであって歴史や信仰を廃すことはできず、王室は残るでしょう。それでも強硬な態度をとり、王室を解体したとすると、そのとき領土の分割や再編などが行われ、少なくとも今のイギリスの形は変わりイギリスではなくなるでしょう。特に国境付近では、イギリス領土内の土地の所有を保障していた保障主が否定されるので、所有をめぐる対立が顕在化するでしょう。特に可能性が高いのはアイルランドの独立です。イギリスはthe United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)ではなくなるでしょう。権威を廃せ、つまり正当性のよりどころを廃せというのはあまりにも乱暴で平穏を乱す言いです。

 

 歴史と同じように使われる言葉に伝統という言葉があります。伝統を頑なに守ろうとする姿勢は時に時代錯誤に映り懐古主義とみられます。すべての伝統を残すべきだとは思いませんが、守らなければならない伝統があります。人類学者ブロニスワフ・マリノフスキーは、トロブリアント諸島のクラについて研究し、価値があるから交換するのではなく、交換するから価値があるのだという知見をえました。そしてまたこの交換を担保するのも呪術であり神話であり信仰であるともつきとめました。フェルディナント・テンニースのゲマインシャフトからゲゼルシャフトへと移行する社会進化論や経済学者カール・ポランニーのいう労働・土地・貨幣といった擬制商品が流通するバーナード・デ・マンデヴィルの『蜂の寓話』のような世界しか知らず、トーマス・グレシャムの「悪貨が良貨を駆逐する」今日の経済社会では、価値というものを捉え損ね伝統とはなにかを見誤っているのかもしれません。つまり伝統は伝統であることに価値があるのではなく、伝えられることに価値があるのだという視点です。現代においては、来歴情報を共有して正当性を高め、安全な社会を構築するという考えが、ビットコインと通ずるところがあります。一系の皇統という伝統や天皇を推戴してきた伝統など、種々の伝統を伝えていくことが価値あることであり、正当性を強固にするものであり、日本を形づくる原資なのではないでしょうか。交換の歴史は現行のアンチエイジングマネーの流通する社会の歴史よりも圧倒的に長く、それをも包摂しているのです。

 民族という語は多義的ですが、一般的に使われる意味での民族の結びつきやその民族を規定するものは、血や歴史、文化や伝統、言語や教育などさまざま考えられますが、その根幹にあるのは交換であり、交換頻度、交換密度の親密さによって民族は形成されているのではないでしょうか。交換行為が正当性を形成し価値あるものとなるのです。

 芸術鑑賞には審美眼が必要です。審美眼を養うためには学びが必要です。伝統の価値にも審美眼が必要です。審美眼を養う教育が必要なのではないでしょうか。

 

 「いいものは残る」と言われますが、いいものは手間暇がかかるため大量消費社会には向かず、いいものであっても失われていくのが実情です。また残るという姿勢はあまりに楽観的で、みずからは関わらないという宣言です。これはハーバート・スペンサーの適者生存やホイッグ史観であると感じます。いいものであっても「いいものは残す」という意志をもって関わっていかなければ後世に残すことはできず、また価値のあるものとはならないのではないでしょうか。

 

 日本の伝統を守るためには教育が必要です。ただしそれは強制であってはなりません。国の正当性は多重多層の構造をもち一つの形を成しています。それを伝統や歴史という言葉の一本槍では理解されないのも無理はありません。伝統や歴史を紐解き、その内実を明らかとして教え諭す教育が必要なのではないでしょうか。また教育や伝承といったものも、ただ知識を伝えていくものではなく、その行為によってお互いの親密さを増し、社会の正当性を高めることに真価があるのではないでしょうか。

 

 相撲は古くからある神事であり伝統といわれますが、土俵の形や取組様式などは変化してきました。歌舞伎も相撲同様、女歌舞伎や若衆歌舞伎などを経て、伝統芸能といわれる現在の様式を確立しました。ホブズボウムは、伝統は19世紀以降の近代になってから創造されたものだと指摘します。相撲も歌舞伎も形式の変遷はありますが、相撲であれば一対一の取組、歌舞伎であれば演劇であることなど、その根幹は一貫性をもったものです。時代の圧力を受けて、様相に変化を施されても、それでもそれは相撲であり歌舞伎であるといえるなにかは違えず伝承してきたのです。そしてその知識を世代間で交換し、文化を贈与してきた過程をもって伝統というのではないでしょうか。交換や贈与の際に変化圧を受けてモノが変容することがありますが、それをも含めて、その都度行われる交換や贈与が伝統を更新するといわれるのではないでしょうか。伝統工芸品のいくつかは形を変えて現代の生活にも溶け込んでいます。それでもその形の変わった工芸品を伝統工芸品と呼びます。

 皇室のあり方も変容してきました。これを変えては皇室ではないというものが一系の皇統です。また皇統は日本の伝統です。日本が日本であるために、皇統は守らなければならないのではないでしょうか。

 

君民一体の国体

 憲法はその国の理念を示すもので公平公正の指標ではありません。民主主義を保障するのは国です。民主主義は正しさの指標ではありません。一般意志を表象する公平さの指標とみなされるものです。無瑕疵な憲法はなく完全無欠なしくみはありません。

 

 民主主義は正しい判断をするとは限りません。たとえば、らい予防法改正までに40年以上を要したことや、待機児童が多く施設が必要とされているのにも関わらず20年以上改善されないなど、誰も反対せず、誰もが賛成であることですら実行できていません。民主主義はかならずしも自由や平等を意味しません。そもそも自由と平等とは対立するものです。自己所有権原理からいっても、極端な自由は平等を害し、極端な平等は自由を侵害します。だからといって自由のみを偏重すれば個人の権利を主張するばかりの殺伐とした社会となり、平等のみを偏重すれば平等の名の下に個性のない均質な社会となります。自由と平等とはバランスが重要です。

 

 民主主義は政治形態であって正誤や善悪の基準ではありません。君主が保科正之や上杉鷹山らのように優秀で徳もあり、家臣や領民も君主を慕い反抗しないのであれば国政を誤ることは少なく、意思決定から実行までがはやくなるので君主制の方が民主制に勝り、君主制の方がより理想的な政体であるといえます。これは『社会契約論』においてルソーも言及するところです。しかし、そのような君民一体の統治は実現が難しく、また君主の意志が代々継承されるとはかぎりません。むしろ善政は一代限りということの方が多いでしょう。そこで次善の策としてとられるのが民主制ではないでしょうか。意思決定から実行までに時間を要し、突発的な出来事への対応が遅れますが、君主が絶大な権力を握り、国民を抑圧するという利己的な政体になることを防ぎやすいと考えられています。合議による決断でも誤ることがあります。独断が悪だということはありません。合議であっても独断であっても排他的で利己的な判断が国を傾けるのです。

 

 憲法に記載されているから天皇を尊重すべきなのではありません。天皇を敬ってきた歴史を成文化したものが憲法となったのです。君主と国民とは対義語ですが、日本の国体は君民一体であるので君主と国民との間に対立はなく、君主と国民とは階級を表す語ではありません。日本は日本国民の総体ではありません。天皇がいなければ日本に正当性はなく、日本は国の体を成しません。そしてまた天皇だけでも日本ではありません。個人のみで国を成すことはできないからです。

 

 皇統にとって血脈は重要です。しかし皇統は純血より純系統をより重視してきたとみられます。皇統を廃そうとする主張の中に、南北朝正閏論や替え玉説、混血や皇位簒奪説などがありますが、これらは純血を至上としたもので純系統を至上としたものではないように思われます。古くは純血のための近親婚もすすめられたでしょうが、純血より純系統に重きをおいたことで、古代エジプト王朝やハプスブルク家のように健康を害することがすくなく、これまで繋がってきたのではないでしょうか。純系統をより重視しているからこそ、嫡流や傍流、正室や側室、あるいは天皇陛下の「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されている」というお言葉になるのではないでしょうか。しかしそれでも皇統にとって血脈は重要です。だからこその男系男子の皇統なのではないでしょうか。女系天皇を認めないのは権威と権力の一極化の防止という面もあるでしょうが、男系男子の皇統は純血と純系統の両輪を充足し、これまで提起されてきた皇統の問題と言われるものは解消されているのではないでしょうか。

 

 天皇を廃そうという声は第一次世界大戦後に結成されたコミンテルンの日本国内での活動に端を発します。天皇制という言葉は日本共産党による造語であり、それ以前には天皇を廃そうという意見はありませんでした。つまり廃するかどうかという二択は提示されて100年ほどしかたっていないのです。

 

 今も昔も天皇を神だと思っている人はいません。君民一体の大御心の皇統、その国体を現代に現した神のようなお人であることを表した言葉が現人神なのではないでしょうか。天皇は代々大御心を継承し権威を更新し続けています。権威は自発性を要するのでただ引き継ぐだけでは権威は付与されません。したがって常に築き上げられてきたものなのです。

 

 この2000余年の間に訪れた数々の国難を乗り越えてこられたのは天皇あってのことです。神話や歴史や伝統だけでは過去から現在までは保障できても、現在から未来を保障することはできません。日本に天皇あるかぎり日本はなんどでも復興し繁栄します。正当性の現前はそれほどまでに貴重です。日本人の誇りと底知れない力の源泉がここにあるのではないでしょうか。もって天皇は日本の宝であると称されます。

 

 天皇は付与されることを望まれたわけではなく、権威ある皇室にお生まれになったがために、自分の意志とは関係なく即位された、何の責任も瑕疵もない無垢なお方です。ですがその地位ゆえに逃れられない重責を担われます。日本の権威であり続けるために、偏らず私心を述べることもできず、どれほどの苦難に遭われても思うままの感情表現もできず、自害も許されず、ただひたすらに祭祀王として日本と世界の平和を祈念されます。その境遇と日本の正当性とを一身に負われる御心の内を想うと、日本国民であれば「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と得心できるのではないでしょうか。また個人の自由が制限された君主であるにも関わらず、税負担を強いている現状は異様です。

 

 「宗教」religionはラテン語の「結びつける」religioを原義とします。昭和天皇による「新年ニ当リ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス国民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」(通称「人間宣言」)において「~朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。~」との御言葉があります。天皇と国民との結びつきを記した歴史が神話ではありますが、君と民とをつなぐ神話が紐帯なのではなく、君民の信頼が紐帯なのです。常に天皇を推戴してきた横糸が、万世一系の皇統という歴史の縦糸と交錯して織りあがってできている紐帯が日本です。

 

 天皇の正当性とはなにかではなく、正当性とはなにかを考えることで、日本の正当性は天皇にあり、またその正当性の内実が明らかとなったと思います。以下にまとめると、起源から現代に至る万世一系の歴史が明かす正当性、般意志の表象という正当性、自由と平和を保障する国を治す正当性、またここでは触れませんでしたが、三種の神器と大御心を継承する正当性、祭祀王として儀式を司る伝統に則った正当性など、日本を日本としている多重多層の確固たる正当性の数々が挙げられます。これらすべての日本の正当性は天皇から発します。その天皇と国民とは一です。一に自由も平等もありません。自由も平等も複数の関係から生じる観念ですから。日本とは君民一体の国体をもって成っています。もって天皇は日本そのものであるといわれます。