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あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

天皇


 すべての伝統を残すべきだとは思いません。永く受け継がれてきたものでも廃れることがあります。中には悪習もあります。しかし「いいものは残る」という言いには感心しません。この言いは自身が関与して伝統を残そうとはしないことの宣言であり、消えてしまった伝統の否定です。

 いいものは大量生産・大量消費社会にはなじみません。いいものの多くは技術の習得に熟練を要し、製作に手間暇がかかるため、時間と価格が大量生産品に比べるとどうしても高くついてしまいます。また、いいものであるがゆえに耐久性があって消費されません。さらによさが時代や文化に左右されることがあります。そこは「工夫次第でどうにでもなる」というのは消費されることを念頭に置いた言いであり、用の美を認めて形式の美を無視しています。

 曜変天目茶碗などの焼き物の多くは、その製造方法が秘匿されていたために、その技法が伝わらなかったということもあるのですが、正阿弥勝義らをはじめとした明治期に需要の落ちていった刀鍛冶や鍔職人などの余技から発展していった超絶技巧の細工物などは、時代も国も超えて問答無用でいいものですが、往時の精細さは失われ、その技術はなんとか継承されているというのが現状です。「いいものは残る」のではなく残さなくてはならないのです。

 後世に残そうと関与し続けているのが盆栽の世界です。盆栽は劣化しづらく保存が比較的容易な工芸品とは異なり、手間をかけ手入れを続けていかなければなりません。よい盆栽の所有者はその盆栽の所有を誇示するのではなく、大枚をはたいてまでその盆栽の来歴を預かり次に引き継ごうという庇護者の精神をもった人たちです。投機目的であればこのように手間がかかり自分で価値を下げてしまう可能性のあるものには手を出さないでしょう。

 同様にして、正当性はただ享受するだけではなく、正当性を保持しその価値を減じることなく後世に伝えようと関与する心持ちが必要です。

 伝統や歴史は一貫性により正当性が高まります。正当性は権威に象徴されるものです。日本の象徴は憲法に記載されるまでもなく古来より一貫して天皇です。

 

 歴史と同じように使われる言葉に伝統という言葉があります。人類学者ブロニスワフ・マリノフスキーは、トロブリアント諸島のクラについて研究し、価値があるから交換するのではなく、交換するから価値があるのだといいます。経済学者カール・ポランニーのいう労働・土地・貨幣といった擬制商品が流通する今日の経済社会では、特に貨幣のもつ保蔵機能に目をとらわれ、価値というものを捉え損ねているのかもしれません。つまり伝統は伝統であることに価値があるのではなく、伝えられることに価値があるのだという視点です。現代においては来歴情報を共有して正当性を高め、安全な社会を構築するという考えが、ビットコインと通ずるところがあります。一系の皇統という伝統や天皇を推戴してきた伝統など、種々の伝統を伝えていくことが価値あることであり、正当性を強固にするものであり、日本を形づくる原資なのではないでしょうか。交換するものに価値があるのではなく、交換行為に価値があり、それが人の結びつきを強くするのです。交換の歴史は現行のアンチエイジングマネーの流通する社会の歴史よりも圧倒的に長く、それをも包摂しているのです。

 

 その国の権威を廃するというのは、外国においては王や神を廃することです。たとえば、イギリス王室を廃するとなったら賛成する人もいるでしょうが、多くの人は反対するでしょう。なぜなら王室がイギリスを統治し統合してきた歴史、またイギリスが保障してきた信仰を否定することだからです。そもそも権威は個々の自発的な信頼によるもので自然発生的に生じるので、加えたり廃したりという対象にはならないのですが、もし王室が廃されたとしても、それは王室制度が廃されたのであって歴史や信仰を廃すことはできず、王室は残るでしょう。それでも強硬な態度をとり、王室そのものを解体したとすると、そのとき領土の分割や再編などが行われ、少なくとも今のイギリスの形は変わりイギリスではなくなるでしょう。特に国境付近では、イギリス領土内の土地の所有を保障していた保障主が否定されますので、所有権をめぐる対立がもちあがるでしょう。特に可能性が高いのはアイルランドの独立です。the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)ではなくなるでしょう。

 

 伊藤博文や井上毅らが憲法を起草する際、一見近代化や規則とは無関係にみえる古事記や日本書紀を研究したのも国の正当性を明らかにするためだったのではないでしょうか。『憲法義解』第二十七条の項に「所有権は国家公権の下に存立する」と私有財産は国の保障の上で成り立つと説明されています。

 鎌倉武士の一所懸命は幕府に土地を安堵してもらうためのものです。幕府の正当性が崩れれば領地は保障されないのです。元に滅ぼされていたらその領地は功績のあった元の武将に分け与えられていたでしょう。

 権威を廃せ、つまり正当性のよりどころを廃せというのはあまりにも乱暴で平穏を乱します。

 

 イギリス人がエリザベス二世を批判することは自己批判ですが、他国の者が批判することはイギリスの否定です。他集団の権威は受け入れるしかありません。それを拒絶し否定することは、その集団の否定であり拒絶を示します。他集団に権威を否定されるということは集団として認められていないということであり、ましてやそれが国を象徴する権威であれば国として認められていないということです。

 

 他国に権威を送るというのは、権威つまりその国の一般意志の象徴が殺傷されたり拘束されたりする可能性がないとはいえない状況にさらすことができるほどに、その国を信頼し尊重しているという証明になります。反対に、他国の権威を迎えることは、その国に信頼され尊重されているという証明になります。

 

 贈与には義務が伴います。他国の一般意志の象徴である権威を厚遇し、無事送り返すことも贈与に伴う義務の履行です。相手の権威は贈与として現前します。贈与を受けとらず拒絶するという態度は「贈与の霊」を停滞させ、不吉な予兆として顕在化します。

 

 権威と権力とが分立していて、なおかつ民主主義国である場合、権力はその国の一般意志の象徴ではなく、一般意志の実務の代行者でしかないので、権威ほどの影響力はありません。代行者に代理はいても一般意志の象徴の代理はいないのです。

 

 国の権威が内圧によって絶えた場合は国の正当性の否定ですから、国土や国境がかわらなかったとしても、前の国の正当性を否定しているので、隣国と国境線について歴史や主張について一から協議し同意を得る必要があります。またその際これまでとは異なる他の正当性をもって一からつくりあげなければならないので、これはもうすでに別の国です。旧来の憲法を引き継いだところで、同じ憲法を用いる別の国として扱われるでしょう。

 

 国の権威の移行劇は前権威の否定となります。全面否定ではなかったとしても、全面肯定ではありません。全面肯定であれば移行する必要がありません。国の権威の移行劇には争いが伴います。国内的には内戦、外交的には戦争に発展しかねない状態を招きます。特に近隣諸国が国土を狙っている場合には、これまでの正当性を否定しているのですからつけ込まれてしまいます。

 

 憲法に記載されているから天皇を尊重すべきなのではありません。天皇を敬ってきた歴史を成文化した憲法があるのです。

 今も昔も天皇を神だと思っている人はいません。君民一体の大御心の皇統、その国体を現代に現した神のようなお人であることを表した言葉が現人神なのではないでしょうか。天皇は代々大御心を継承し権威を更新し続けています。

 

 日本の神話が歴史書とされるのは、神代より万世一系の皇統が今も続いているからではないでしょうか。そしてまた、そのために神話が神話とならず歴史にとどまるのです。古事記や日本書紀などの神話から天皇史へとつながり現在まで続く、神話から一つなぎの歴史です。日本には天皇がおられますので、神話がなくても新たに紡ぎ出していくことができるのです。天皇がおられる限り日本はなんどでも再生することができるということです。

 日本は万世一系の天皇、祭祀を継承する伝統、君民一体の国体、神話から続く歴史、三種の神器を伝承する皇統など、日本は幾重にも折り重なった正当性により守られています。

 

 天皇は皇統の歴史に権威を感じる被権威者である一方、国民からは権威を押しつけられる権威者です。現世にある限り無私であることを強制されます。

 天皇は一般意志つまり国民の総意を反映する鏡であり日本を体現するものであるので、天皇を批判することは自己批判に等しいものです。かといって天皇を擁護しようと行動したり代弁者を自称したりすることはおこがましい行為です。なぜなら天皇は一般意志の象徴でありそれを擁護しようとするのは、みずからが一般意志の代表であることの表明に等しく、新皇の自称に等しい慎むべき行為だと思うからです。

 天皇は付与されることを望まれたわけではなく、権威ある皇室にお生まれになったがために、自分の意志とは関係なく即位された、何の責任も瑕疵もない無垢なお方です。ですがその地位ゆえに逃れられない重責を担われます。日本の権威であり続けるために、偏らず私心を述べることもできず、どれほどの苦難に遭われても思うままの感情表現もできず、自害も許されず、ただひたすらに祭祀王として日本と世界の平和を祈念されます。その境遇と日本の正当性とを一身に負われる御心の内を想うと、日本国民であれば「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と得心できるのではないでしょうか。

 

 国において国体ほど重要なものはありません。普段意識されない国体が国の危機に際して高まるのは、国体のもつ領土、国体の上での個人の自由が脅かされていることを感じとるからではないでしょうか。

 

 国体は国によって異なります。したがって国体と自由との関係もさまざまです。フランスは国体の上の自由、社会主義は国体の下の自由、日本は国体と一体の自由です。フランスをはじめとしたヨーロッパ諸国の多くは、君主と対立して勝ち取ってきた平等が国体であり、その上に自由が築かれています。社会主義では平等な世界を構築するために、平等の名の下での自由を計画しました。日本は君を戴いてはいますが君民一体ですので、君の上の平等は、すなわち民の上の平等です。

 

 天皇だけでは日本ではありません。天皇を欠いた国民の総体も日本ではありません。天皇を戴く国民の総体が日本です。君民一体の国体において、君主は民の一般意志の表象です。天皇は日本という国の維持と繁栄の象徴であり、日本そのものです。

 

 日本は多重多層の繊細にして、高度であるがゆえに強固な正当性に守られています。そのすべてが天皇より発します。

 その国がその国であることを証するのが国体です。日本の国体は君民一体です。