あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

権威


 生物は群生します。そして人も群生します。群れを成さない動物であっても有性生殖であればいつかどこかで同種族の個体に出会わなければ種は途絶えてしまいます。

 原始的な集団は物理的な力の強い者による支配体系です。ハチやアリなどの集団では個々が有機的に動き女王が直接手を下すということはありませんが、体格や力の差は歴然です。サルやアザラシなどの集団ではより顕著で、雌の争奪や世代交代などは個体の腕力により決します。純粋な腕力ではなく角の大きさや羽や歌声の美しさによる場合もありますが、それらも潜在的な腕力の現れだとみなします。

 力による支配体系では、大規模でなければ規則を遵守させることは容易です。なぜなら力のある支配者が直接出向いて力ずくで従わせればいいだけですから。現支配者への服従を拒否する場合には、現支配者に力で挑み負かせば政権は移譲します。明快な統治機構です。

 時代が下り、人が知能を持ち出すと力による支配体系だけでなく、特殊能力による支配体系も現れます。ダヴィデがゴリアテとの腕力差を機転により逆転し、モーセが海を割りイスラエルの民を導いたように、力の差を克服する道具の発明や使用、狩猟採集や農耕技術、他集団の排撃など、信頼を集める知識や判断力をもつ指導者を重宝する集団が現れるからです。こうしてその指導者の権威は高まっていきます。

 

 犬の群れのリーダーは、群れの中の弱い者を敵と自分との間においたり、先陣を切らせたり、先頭を歩かせたりはしません。むしろ自ら危険の矢面に立ちます。人の戦争でも指揮官が先陣を切ることがあります。軍の士気が上がるという効用はありますが、指揮官が亡くなれば指揮系統が乱れ大敗する危険の方が多分にあるようにみえます。それでも指揮官は先頭を行くのです。そしてそのような指揮官が兵士の信頼を得て権威となります。権威はときにみずからを危険にさらします。それがまた権威を高める契機ともなります。

 

 自集団の権威には聖性が宿ります。対して多集団の権威は魔性に映ります。どちらにも威厳・威圧・威風・威光があるので、多集団の権威の高まりは自集団にとって脅威であり威嚇されているように感じます。

 

 統治能力の高い頼れる支配者であってもいかんともしがたい事態があります。それが自然です。自然は恵み与える一方で天災を招く人には御しがたいものです。このような自然を人は畏れ敬いました。それがアニミズムや神への信仰へとつながり、自然や神を絶対的な権威として定立しました。権威authorityは著者や創造者を表すauthorが語源です。絶対的な権威は創造者を起源としています。

 

 自然や神への畏怖心が権威の発生起源ではなく、指導者に寄せる信頼感が権威の発生起源なのかもしれません。地域や集団によってまちまちであったと思われます。

 絶対的な権威である自然や神は直接なにかを命じたり語ったりすることはありませんが、統治能力に長けた指導者の手腕があたかも神との交信にみえ、それが神の威光を纏い、神の意向を汲むことのできる権威であるとみなされました。神は絶対的な権威をもちますが権力はもちません。権力をもつとみなすのは、神の代弁者と称する者が神の名において命じるために生じる現象である。政の起源が祭りであったことがそのあらわれです。

 

 グローバル化により共通の価値が王や民族の正当性から金の威力へと移行していきました。王も金も信頼が根にありますが、金が権威をもつことはありません。王への信頼は王自身に負うものですが、金への信頼は金を保障する者が負うものだからです。権威は権威自体が負うものです。

 

 世界各地の先住民族には族長と呪術師がいます。そしてそのすべての集団ではありませんが、族長の意見より呪術師の意見を尊重する集団があります。族長は呪術師による精霊の言葉に疑義を挟まず、呪術師は集団を率いることはありません。これは族長を権力、呪術師を権威とする、権力と権威とをわけたしくみです。

 

 人は古来より感覚的に聖俗、ハレとケをわけたがる気があるのではないかと思います。16世紀のポーランドの大宰相ヤン・ザモイスキは「国王は君臨すれども統治せず」という言葉を残しました。このときのポーランドは選挙王制で連合共和国という政体をとっていました。王から権力を削ぎ、共和国の象徴、権威として廃することはなかったのです。

 権威と権力とが一極に集中すると、片方に瑕疵が生じた場合にもう片方も傷つけられるおそれがあります。権威がなにも指示せずそこにあるだけであれば権威にとどまりますが、権威が指示すれば権力へとかわります。

 権力は法によって権威を牽制し、権威は民意の反映として権力を牽制します。また正当性の保証は権威によってなされ、権威の保証は民衆の意志によってなされます。民衆が権威を否定するときに正当性も否定され、これまでの自己も否定されるのです。権威には、その集団の意志を映す鏡のようなところがあります。

 

 ところで、権威とはなんでしょうか。学界の権威といわれる人がいますが、その人はその分野において、後に標準となる画期的な発見や発明をした人のことです。標準を示すことから妥当性の基準、あるいは正当性の象徴とみなされます。

 みなされると曖昧な表現をしたのは、現時点では間違いないと思われていても後に覆る可能性や、その分野の特定の領域の標準ではあっても、他の領域の標準であるとは断定できないなど、絶対確かな基準とはいえないからです。したがって結局のところは、権威の正当性を信じ追従するかどうかは各自に任される信仰です。

 権威と似た言葉に重鎮や大御所といったものがありますが、重鎮や大御所は正当性ではなく影響力を強調した言葉です。個人が権威を不当であるとみなしたとき、その個人において権威は権威でなくなります。一方、個人が重鎮を不当であるとみていても、重鎮は重鎮のままです。

 権威は自発的な追従を促すもので、追従を強要することはできません。権力は力による強要で強制することができ、またそうする力のことです。追従を強要することは力の行使であり、自発性を無視しているので、それは権威ではなく権力です。権威が強要すると重鎮となることがあります。また権威は強制ではない自発性を原資とするという点においても信仰であるといえます。

 権威はある集団における価値尺度であり、妥当性のよりどころであり、正当であるとみなされる信仰です。意見が対立したときには担ぎ上げられる大儀であり、一般意志の象徴とされるものです。

 権威の威光の及ぶ範囲は、ある集団というふうに限定条件がつきます。そしてその集団の中心から離れるほど威力は弱まり、埒外においてはまったく威力が及ばないこともあります。

 神仏像の破壊や指導者の暗殺、その道の大家の批判など、そういったものはその集団の帰属者でその権威を認めている人からはなされません。権威は帰属意識と強い相関関係にあります。

 権威を否定するものにとっては、その権威はその人にとっての価値基準でも行動規範でもないということであって、なおかつその人にはその権威とは異なる価値基準や行動規範を示す権威を戴いているということです。その人がなんの権威も戴いていないということではありません。

 権威は信仰ですが、無神論者は権威を戴かないということではありません。無神論者は無に正当性を付与し、価値基準として権威としています。あるいはそのような自己を基準とし、権威とします。また憲法を権威として戴いているように見える集団がありますが、憲法は権力を記述したものであり、根底にはその価値基準となる権威が潜んでいます。

 

 権力なき統治は可能でしょうか。権力をふるわずに統治を行うには、その集団の構成員全員の意見は常が一致しなければなりません。

 あらゆる場面において全員一致の一般意志が実現する世界というのはつねに意見が一致する、会話を必要としない個性のない個々による社会です。この集団は指導者を必要としません。このリヴァイアサンでは君主制も民主制も違いはなく、ビヒモスなど到底存在しえません。全員一致の一般意志が実現しているようにみえる世界があったとしたら、それは反対意見を粛正しているか、個性が不在であるかのどちらかでしょう。前者は絶対権力を前提とし、後者は権力が不必要なので権力が不在です。このことから権力なき統治はありえなそうだということがわかります。

 

 それでは権威なき統治は可能でしょうか。権力によって服従を強制すれば国民の不満が高まり国は存続しないでしょう。仮に権力者がとても優れた統治を行ったとしたら、権力者には権威が付与されるでしょう。どうやら権威なき統治もありえなそうです。

 

 王制に対して支持派と反対派がいたとします。支持派は王の権威を認め、反対派は王の権威を否定します。権威とは行動規範であり価値基準であり信仰心だからです。王制ではわかりづらいのであれば、神の肯定派と否定派としてもかまいません。否定派がなぜ否定するかといえば、そこに整合性や正当性を見いだせず、その神への信仰心が湧かないからです。むしろ胡散臭いとみるでしょう。反対派の力が支持派を上回らないかぎりその体制は続きます。ここでいう力というのは人数であることもありますが、経済力や軍事力であることもあります。現代の格差を生む資本主義経済体制が続くのは、頭数だけが体制をかえる力ではないことをあらわしています。

 

 王が命じる戦いは権力の行使ですが、民衆が王の権威のために立ち上がるのは、王の意志というより民衆の意志です。それではといって王が戦を指揮するときでも、それは王の意志というよりは民衆の意志でしょう。このとき権威は王の意志を反映するというより、そのような王を望む民衆の意志を反映しているのです。

 

 民衆は権威に権力を預けたがります。権威は中立中性で、見たいものを見せるだけで特別何かをするという恣意的なものではなく、集団や個々の姿を映す鏡のようなときがあります。

 このとき、権威が命令するのではなく私の望む権威はこのように命じるだろうと推測し、自らを権威の代弁者や予言者であると信じる者が現れるでしょう。そしてその者が権威の名の下に命じるとき、権力は行使されます。提案でとどまるのなら代弁者にとどまりますが、神の名をかり命令を下せば権力者となります。

 権威がその民族や集団を映す鏡であるとき、権威の喪失は民族の意志の喪失に等しいものがあります。

 

 権威は正当性であり価値基準の象徴であり、また権威が私を映す鏡となることがあります。そのとき権威を否定することは、私が否定されたに等しいこととなります。したがって相手の権威の尊重を強制されること、つまり権力による権威の強要は、受け入れれば自己否定であり、拒絶すれば肉体の消滅をともないかねない、どちらにしても自己否定を迫る暴力です。自分の権威を尊重するとともに相手の権威も尊重する必要があります。

 

 ある分野における妥当性や正当性の基準となり、よりどころとなるのが権威です。畏れ敬うことは強要できないものですが、多くの場合は教育によって権威への感受性が養われます。

 

 権威は信仰心です。権力は信託です。信仰心と権威と愛国心とは比例します。信仰心や権威や愛国心が薄くなることは個人主義を加速させ強化します。その逆も然りで、社会の産業化が個人主義を押し広げ信仰心を低下させました。

 

 権威は正当性です。正当性は信仰のよりどころです。権威はその集団の一般意志の象徴です。権威への反抗は信仰への反旗であり、その集団の正当性を否定することです。他者の権威を受容できなかったとしても尊重はしなければなりません。

  権威と権力が独立並存すれば、権力の正当性が否定されても権威の正当性は否定されません。この有用性は権力批判による集団の弱体化を抑止できることです。 また権威が否定されても権力が否定されないことの有用性は、権威への批判がおこっても権力による暴力装置は機能し続け統治を維持できることです。

 権威は一貫性によりその強度を増します。なかでも出来事の集積による歴史はその最たるものです。