あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

平和

 善を望まない人はいないと思うのです。問題は私の善とあなたの善が一致するかということです。幸いにも一致すれば、善は強力な根拠・機構として十二分に効力を発揮しますが、残念ながら反目した場合には、善が実力行使の強力な根拠・機構として十二分に効力を発揮してしまいます。これは人の歴史・戦史が如実に示すところです。

 

 古今東西、武力による天下国家の平定が説かれています。国家の根は暴力なのかもしれませんが、善・正義の維持のためには暴力も侍さないという善意識も関わっているのではないでしょうか。だとすると、善の近似する個々の集団が民族や国家であり、このような集団は、善によっても結びついているので頑固なのかもしれません。

 

 戦争は目的ではありません。仮に戦争が目的となる戦争があるのだとすれば、それは平和を嫌悪する国による戦争ぐらいでしょう。平和を嫌悪する国にとっては平和を乱す戦争が平和を求める行為だからです。戦争は過激な交渉手段の一つです。平和を求めない戦争があるでしょうか。戦争をなくすための戦争。天下を統一し争いのない世にするための戦争。人類平和のための戦争。いくら主語をかえても平和を求めれば戦争がおきます。平和も欲の一種です。平和問題はユートピアです。人類といってもその人類に含まれない人がでてきます。戦争がないことが平和なのではなく、平和を求めないこと、今以上を求めないこと、足を知ること、平和という言葉が不要で無意味となったときが平和なときです。閑古鳥の古事のように。善政は為政者が意識されない政治であるように。

 

 争いは善意と善意の衝突により生じます。自民族・自国の教理・意志が正しいのだという正義の衝突です。問題は誰の善なのかということです。悪意と悪意の衝突がみられるのはどのように相手を出し抜き打倒しようかと思案し実行する戦闘局面においてです。

 

 戦争は国家間の争いです。たとえ平和を嫌悪し戦争を礼賛する者がいたとしても、それが集団意思へと昇華しなければ戦争にはなりません。大多数の人が戦争を悪といいますが、利益追求や発展・繁栄が最善であると考える一部の軍産企業や国にとっては、善行、あるいはそこまでではないにしても、必要悪だとは考えているのではないでしょうか。戦争の端緒が戦争による雇用の創出、兵器売買の利益による一族繁栄、国益、権力誇示など、個人的な感情や集団の意志などによるものでも、戦闘の中にある個人においては、自国や自民族、特定の思想・個人を守るための善意による行動であるかもしれません。戦争終結が難しいのは、敗戦が場合によっては命や国や善を失うことになるからです。

 

 平和をなすためには意味をなくすることです。「律法によらなければ罪を知らなかった」というパウロによるローマの信徒への手紙などでいわれていることの曲解流用ですが、これは知性を捨てなさいというのと同義で現実的ではありません。もう少し現実的な方法は、正確な未来予測です。未来予測の精度が極度に高まれば、それは必然の近似をとります。そうなると最悪の事態、つまり武力による実力行使はおきず、仮定の段階で決着します。争いの舞台は物理的な場から仮想の場に移行します。しかしそれでは現状不利な立場の者は強者に従うしかないかのように思われます。その場合は現状を打破する思考、相手に一矢報いるような発想を提出・捻出・提示することで話し合いの余地を生み、会談の場に引きずり出すことで、大勝はできませんが、大敗を喫することがなくなります。ただし前提条件として、未来予測は万人に行きわたっている機械・機会であるということです。未来予測の力が一極に集中すれば、革命すらおこせない、絶対の堅牢な専制支配構造になってしまうからです。結果として、考え得る平和実現の方法の中で最も現実味のあるものが、あの人口に膾炙して久しいものです。

 

 人類共通の善があればそれを基準に白黒付けられますが、信仰・教理・意志・文化・言語・意識などにより、人間・社会・民族・国の間で善が異なり一致しません。善は多様性を有します。同様に悪も。知性が善悪を創出し、知性が善悪をもち、その善悪は関係から新たに生滅し変容します。新たな論理の合議を暴力によって拒否する行為が戦争です。永遠平和のためには、善は多様であることを認識し、相手の意見を打倒するのではなく、解釈の多様性を認知することであり、話し合いにより合意点を見いだし、共通善と規定したり、意見が一致しないのであれば、それぞれの善を尊重するなどの歩み寄りが必要となります。戦争と平和や、善と悪の両極性の源泉は意味にあるのですから、意味の解釈を変更すれば意味の反転や融合がはかれるはずです。最大の愛は肯定です。最低の愛は不知覚です。あるものをないものとせず、あるものはあるがままに肯定し受容・感得したうえでの合議が肝要です。

 

 視点を固定し偏重することが善悪の蕾です。偏重により善が開花し衝突します。平和は善の衝突です。悪と善とは双生児です。

 現実的な恒久平和のためには相互認知のうえ、合議の場に寛容と諦観を持ち寄る必要があります。