あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

まわるまわる。世界はまわる。

どちらの人生もつらいよ…

 前回にひきつづき、もうすこしお釈迦さんとニーチェさんについて。

 

 お釈迦さんは「四苦八苦の世界がグルグルめぐってこの輪から抜け出せないなんて、なんて輪をかけた苦の世界であるのか人生は…」と輪廻を説きました。

 

 ニーチェさんは「世界はすんぶんたがわぬまったく同じことの繰り返しで、なんて無意味な世界なのか人生は…」と永劫回帰を説きました。

 

信じてたか、信じてなかったか。どちらを信じる?

 仏教は宗教とみなされているので輪廻思想に違和感をもつひとはいないようですが、「哲学で永劫回帰ってどうよ?」という意識がつよいせいか、「ニーチェも世界のありようが永劫回帰しているとは考えなかったでしょ→よ」というひとが、わたしの勝手なみたてでは「3:7」で「あり:なし」派にわかれるような気がします。

 

 ニーチェ読みの分水嶺はいくつかあるでしょうが、ココが一番きわだつ峰だとおもいます。

 「ニーチェさんは科学的にも永劫回帰していることを証明しようとしてたよー」というひともあれば、「いや、いや、いや、いや。ない、ない、ない、ない。冷静に考えてっ。永劫回帰ってないでしょー。自己超克方法として利用しただけよー。だって半狂乱初期のころにおもいついたものでしょっ?」というひともいれば、「どっちかわからないし、目ぇあわさんとこっ。ヘタにふれると大ケガするから、できるだけバレないように、そーっと、そ〜っと素通りするのがいちばん得策」というひともいて、これが決定版という見解がありません。わたしが知らないだけでもうみつかってるのかもしれませんが……。

 

(世界のあり方が永劫回帰するとみると、永劫回帰がすべてを否定するのに対し、永劫回帰はニヒリズムの超克方法だよ〜とみると、永劫回帰はすべてを肯定するので、ひとつのことから真逆の二つが生まれるの?と、混乱をもたらしているのではないか……というのがわたしの勝手なみたてで、ここを見定めるとすっきりするんじゃないかな〜、すっきりどころかもっさりかぁー?見当違いかな〜、という感じです。)

 

まわってまわって目を回して見失ってみようか?(お釈迦さん)

 前回ふれたように、めざせ如来!なるぞスーパーマン!!の過程、お釈迦さんは遠近法をほって、ニーチェさんは遠近法をひらうので、お釈迦さんは輪廻もほって、ニーチェさんは永劫回帰もほかしておけない。するとそれぞれどうなるか⇒

 

 世界がぐ~る、ぐ~るまわっちゃってるけど、意味も意味の源泉の意思も思考もないんなら、あれっ?気づけば輪廻うんぬん関係なくなってない?

 輪廻を否定することも、それから抜け出すこともできないけれど「輪廻を超える」ことを解脱とすればいいじゃないかっ?!

 

 でもこれを生きるのはむつかしいなぁ。ほぼ不可能だね。うんっ。

 でも修行あるのみっ!

 それにしても、苦行もしてみたけどさぁ、苦しみのなかで死んじゃったら意識もあるし輪廻もしちゃうから最悪じゃない?苦の生が輪廻するから苦の輪くぐりだよっ、それ。

 でもそれがきみにとっての忘我にいたる方法になってるんなら、ひとそれぞれだから正解だけどね。と「呪文を唱え、合掌して、祈願をいくらしても、それがなんの効験を現すというのだろうか」といって「遠近法を捨てよ(、町へ出よう)」というのがお釈迦さん。

 

世界が回ってるんじゃない!回してるんだぁ!!(ニーチェさん)

 世界はグリングリンめぐるけれど、こっちから迎え入れてやればまわってようがどうだろうがかまわないさっ!

 よしこいっ!さぁこいっ!!どーんとこいっ!!!ぜんぶうけいれちゃるっ。

 

 ただし受け入れ方に注意して!

 一つ一つを肯定するんじゃなくて、ぜんぶまとめていっきにどうじにあますことなく、見えるものも見えないものも、矛盾もなにもなにもかも肯定するんだよっ、と「私はいつか、ただひたすらに、肯定するだけの者になりたい」といって、そうすれば遠近法があってもないのとおなじでしょっ?というのがニーチェさんの超人スーパーマン

 

二教指帰

 どちらも第三段階の理想モデルに、否定するともなく否定して肯定するともなく肯定する、ひとでありながら「ただ“ある”」だけの赤ん坊をあげています。

 

 「赤ちゃんてなんも考えてないよね〜」がお釈迦さん。

 「赤子はうけいれることしかできないっ」がニーチェさん。

 

 どちらも遠近法の乗り越え方をしめして遠近法をなくする生き方をみせているのだと思います。

 そういえばピカソも晩年はこどものように描きたいっていって左手で描いたりしてたね。

 

 「子供は無邪気そのものであり、忘却である。一つの新しい始まり、一つの遊戯、一つの自力でころがる車輪、一つの第一運動、一つの神聖は肯定である。」

 

↑さて、どちらの言葉でしょーか?

 『シッダールタ』を書いたヘッセさんの作品に『車輪の下』があるからお釈迦さんかな〜?それとも「肯定」ってあるからニーチェさんかな〜?どっちかなぁ⤴?

 

 ……ニーチェさんでしたっ。

 どう?いらいらした?

 …おふざけがすぎました。すみません⤵。

 

 一元論も二元論も。民主性も僭主制も。資本主義も社会主義も。真反対にみえる道でもつきすすんでいった先の思想・境地はおなじみたいです。

 プラトン(ソクラテス)とかウェーバーとかマルクスとかシュンペーターとか

 『学識ある無知について』の「反対の一致」や『三浦梅園自然哲学論集』の「一即一一」とかねっ。

学識ある無知について

学識ある無知について

  • 作者: ニコラウスクザーヌス,山田桂三
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 1994/11
 
三浦梅園自然哲学論集

三浦梅園自然哲学論集

  • 作者: 三浦梅園,尾形純男,島田虔次
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1998/05/18
 

 

 ご静聴ありがとうございました。(文章なので聞く一方で話ようはないんですけどね。)この解釈はわたしのトンチンカンな遠近法ですので、他言はおすすめいたしません。

 恥をかくことをいとわない方は吹聴していただいてもかまいませんが、ほんとにいいんですか?

 単語の使い勝手がいいだけで、わたしだいぶん前からニーチェさん得意じゃないですし、あんまりすきくないですから知りませんよ。なにかあっても文句いわないでねっ。

 

 おしまい。

 

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