あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

倫理

 倫理・道徳には三態があると思います。つまり、「~してはいけない」という禁止、「~しなければならない」という義務、「~した方がよい」という奨励です。しかし倫理・道徳には、常に拭いきれない胡散臭さがあると感じる人は少なくないのではないでしょうか。これは世界が恒常的に定立したものではない、諸行無常・生成流転であると感得しているからではなく、諸行無常・生成流転には何も定立させられないという猜疑心や不安からくるものだと思います。

 

 これまで人類は原初に何があるのかを探求してきました。しかしあるものがあるという同語反復の無意味に行きつき、そこで立ちつくしています。他の方途はないものかと査証してきましたがみつからない。それでも何かを、ここでは整合性をもった揺るぎない普遍不滅の強力な道徳のことですが、その確立のためにはここからはじめなければなりません。つまり無意味なあるということからです。道徳の構築、あるいは人類の生存理由の構築が、人類の至上命題なのかもしれません。

 

 善悪の起源はニーチェが「道徳の系譜」で説くように、ルサンチマンによるよい・わるいを起源としているとも考えられますが、生存に適・不適であったからとも考えられます。たとえば原始の定住生活において、居住区に死体を野ざらしにすることは危険なことです。なぜなら死体は動かず腐敗し死臭を漂わせるので、獣をおびき寄せるからです。そこで生まれたのが埋葬であり、その際、臭いを誤魔化すために、手近で手軽に手に入る匂いの強い花が選ばれ、手向けられるようになったのではないでしょうか。つまり死者を弔うようになったのは道徳心や愛情、愛着の念が生じたためではなく、外敵から身を守るため、という生存のためだったのではないでしょうか。煙やにおいの種類によっては、虫や人などを退けたり惹きつけたりする効果があるので、花を手向ける習慣が、今日のお香・線香ともむすびついたと考えるのは飛躍しすぎでしょうか。

 

 味や食感はにおいに依拠するようです。ワインやお茶、そばなどの味をみるときには鼻腔を通しますし、鼻をつまみながら食すと味がわからなくなったりすることなどからも確認できます。五感の中でも嗅覚は特異です。においという刺激は脳の神経細胞に直接伝わります。このことから、においは生物に大きな影響を与えると考えられています。プルースト『失われた時を求めて』のマドレーヌのように、においには想像以上の力があります。

 

 初期の外敵を斥ける行為が感情の発達や居住区の安全性の向上を経て、時代と共に理由が忘れられ、目的を失った行為だけが残り、そこに合理的な理由・意味づけがなされて今日の埋葬様式を形成したのではないでしょうか。

 

 人間に言葉を教えられ言葉の意味を理解できるようになった熊がいるそうで、あるとき、その熊の子どもが亡くなったことを伝えると、悲しいと答えたという例もあるようなので、従来一般的に考えられている、行為が概念を形成したのではなく、概念が行為の要因になっていることを否定するものではありません。道徳の起源が多面的でありえることの提示です。

 

 集団においては個々に役割があり、また、個々の利害が衝突することもあります。そこで必要になるのが規則です。その規則の湧き上がる源泉として神やイデア、倫理や道徳が必要となり、規則の根拠を担保するものとして、それらが据えられたのではないでしょうか。規則と倫理の発生過程は、倫理が根底となって規則が生じたのではなく、規則が生じた集団がより生存に適しただけのことであって、その規則に倫理の必要が生まれ、倫理がつくられ、後に倫理が規則の根底に置かれたのではないでしょうか。つまり、規則の母胎は倫理ではなく、倫理の母胎が規則なのではないかということです。

 

 倫理や道徳に根拠がないのは、一においては如何なる意味も意味をなさないため、善悪がなく、生存しなければならないという理由がないからです。ただ生存したという事実があるだけです。ただし倫理や道徳に明確な根拠はないといってなにかが許されるわけではありません。根拠がないといっても総じて生存に適するという根拠があります。総じて適していなかったのなら既に滅びているはずですので、倫理や道徳の遵守される社会が残り、それを侵すことは許されない社会に属していると考えられるからです。総じて生存に適する規則なので、その規則の中には生存には必ずしも適切とはいえないようなものも含まれていますが、これは立場や場面が異なれば生存方法も異なるからです。生存に適する規則もそうでない規則も、倫理や道徳という名のもとに一括りにされ、生存に不適な規則が生存に適する規則と同列におかれて守るべきものとなります。倫理や道徳は生存に適する場合が多いという意味・理由のない指標・経験談・訓辞・訓戒です。

 

 倫理や道徳は絶対すべきもの、絶対に守らなければならないことではないけれど、生存してきた先達がつくりあげ、そして残ったもの、つまり生存の中で生存してきたものなので、多くの場合それは生存に適しています。その上で、強制や思い込ませではなく、選択の可能性を提示し、なにを選択するかを問うことが倫理や道徳教育なのだと思います。

 

 生きる習慣があれば生きる道徳が生成され、死ぬ習慣があれば死ぬ道徳が生成されます。習慣が道徳の根拠であり、教育が習慣を強化・創造・革新します。教育だけでは道徳は根づかず、習慣化することで強固となります。知能の誕生後、習慣の道徳化と道徳の習慣化の相互強化過程が始動し、より強固となります。何が強くなったのかといえば、無意味を覆い隠すベールです。

 

 意味の確立が目的の確立となり、習慣化され、それを教育が強化し、倫理や道徳となるのだと思います。習慣という生活が倫理や道徳という論理を生み出すのでしょう。倫理や道徳がこういったものだったとしても、倫理や道徳に明確な形を与えることはできません。しかし少なくともそこに生きるということ、さらにその先に、あるということを見せることはできるのではないでしょうか。道徳は人間の自由意志の総意の発露である一般意志からなります。したがって道徳の尊重は自由意志への賛歌・讃歌でもあります。

 

 倫理が総じて生存に適する方法であるとすると、正義は功利でよい、というより、功利が正義を生存させます。悪をなくすには善をなくせばよく、罪をなくすには法をなくせばよいのですが、それは総じて生存に適しませんので、そのような社会が発生しても存続はしません。

 

 自尊・自愛の最大のものは「生まれないことができなかった」という事実。寛容・諦観の最大のものは「そのようにならないことなどなかった」「そうなるしかなかった」という事実です。生きるということは理由ではなく事実です。一において道徳や倫理は成り立ちませんが、この理由なき事実こそがそれに近いものです。心理学では、事実を変えることはできないので無意識のうちに解釈を変更し、精神衛生を保つために感情と認識との差を埋める傾向があるといわれています。事実とこの傾向とを掛け合わせると、倫理や道徳の根拠の代替物を用意することができるのではないでしょうか。

 

 生きるということに意味はありません。これは生きることに意味がないのではなく意味自体に意味がないため、あらゆる意味が失われているからです。ただし視座を変えれば、生きるということに意味はあります。つまり存在自体が意味となるということです。生きるということが個々におけるものであるのならば意味はありませんが、生きるということが変動や渾沌といったことを示しているのであれば意味があります。生きるということが個々の存在証明であり、翻って世界が変動そのものとしてあるということの証明となります。変動そのものではすべての瞬間が始まりであり終わりとなります。つまり常に新たに生まれ、あるいは瞬間ごとに生まれ変わり、新たな意味が生じます。私たちが常に生まれ変わり更新されるということは、文字通り世界の生き証人なのです。

 

 私たちの生に意味はありません。しかし、そこにある以上なくなることは不可能です。この点において思考を止めれば「誰も不必要な人などいない。あなたは生きている。」といった強力な倫理感を提示します。これは誤謬ではありません。仮に誰か神隠しにあい、加えてその誰かについての記憶が全員から消されたとしても、消すというはたらきが関与していますし、このような関与がなくても、あるものをなかったことにはできませんので、その人が存在したことはなかったことにはなりません。確かに不必要な存在などなくすべてが必要です。世界はすべてで一なのですからなに一つ欠くべきものはなく、欠いてはならず、そもそも欠くことが不可能です。それは死によってもかわりません。しかしだからといって自殺するべきではないと言いたのではありません。生きようと死のうとそれはただそうあるべきもの、そうでしかありえなかったという事実にすぎないからです。あるものはあるべきもので他のあり様ができず、なくてはならなかったものであるという事実に意味づけをしたものです。

 

 倫理は一般意志により形成されます。善悪も一般意志により形成されます。しかし善悪の実践は功利や社会に帰属するものではありません。理論と実践は別物です。

 

 世界が人を生み人が善悪をつくりましたが、その、人がつくった善悪に世界はなります。善悪は人によってつくられたものであり、世界からすればどうでもいいことなので、世界を善くも悪しくもするのはイデアのような何かではなく、善悪をつくった人です。そしてその適用・運用の権限も人にあります。世界に本質はないので、世界はこういうものであると決めるのは人です。

 

 善悪は一般意志により形成され、教育などにより継承されるのですが、それを採用するかどうかは個々の自由であり、どちらの選択を行ったとしても、それは個々における正当な世界です。他人や社会の批判は関係ありません。それによって個々の世界像が反転したとしても、反転させる選択を行った個々の意思によるもので、それまでの過程を含めて正当な世界です。とはいっても、倫理や善悪を規定する概念や言語なども自ら一からつくりあげたものではない既存のものなので、その範疇にある限り自由とはいいづらいものではありますが。

 

 更正は社会への適用を促すもので善を適用することではありません。善の履行者にとっての善行でも、被履行者にとっては善であるとは限りません。履行者による行為によって被履行者の善が変容すれば、それはそのとき被履行者にとっても善となります。善悪の採択権は常に個々にあります。知性のある限り侵されることのない領域です。知性がなくなったときにはその人の周りにいる人の個々の善悪はあっても、その人の善悪はなくなっています。善悪を滅し善悪を超克しています。

 

 見返りを期待せず、極力意図せず善いといわれる行為を行うことが善といわれます。つまり道徳は根拠を留保したままで無自覚に運用されるのがよいようです。しかしそれでは究極の善、あるいは善自体、善のイデアといったものがあるとしたら、善を行うものは無為の境地であることになってしまいます。はたして善と無為とは共存できるのでしょうか。

 

 偽善は善でしょうか。偽りの善であるから悪でしょうか。偽悪は善でしょうか。意図された悪であっても善意はあるかもしれません。善と断定しづらいものですが、いずれにも意思がはたらいており、無為ではありません。どうやら善には善意が必要なようです。とすると無為の善は不可能です。善行は、行為の前に善意が必要であり、行為の後に善行と断定されます。善意・善行の鑑定人は自己のみでいいのですが、他者や集団によって判定されることによって、善性が強化されたり、共通善とみなされたり、聖化されたりすることがあります。

 

 世界は自身があることの意味を欲しているのかもしれません。私があるのは世界があるから。そして世界があるのはあるから。私が他のありようをしないのは、私がこれであるのは、世界が他のありようをせず、あるがままであるからです。私が世界であるのなら、私が善であれば世界も善となります。人間原理的で利己的な道徳論ですが、ここを起点として発展させると、私を善くするために世界を善くし、世界を善くするために他者と協調し敬い、他者と協同することで社会を善くし、社会を善くすることで私が尊重されて善い者とみなされるといったような、善の循環が動き始めます。優等生的で潔癖にすぎるので、私の趣味ではありませんが、一般には好まれると思いますので、倫理観の一つとして提示しておきます。

 

  一般意志からなる倫理は総じて生存に適する方法を示します。個々の善悪が正当であっても、法に則って裁かれるのは、法が一般意志によるものであり、善悪は 個の独断採択によるものだからです。世界を善にも悪にもするのは知性をもつ個々です。しかしこれは善悪があるということではありません。