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あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

思想 思想-一

 初期の規則はとても厳しく、強制されるものであったと考えられます。なぜなら規則に反することは、その集団の生存を脅かすため、そのような者は排除されていたと考えられるからです。規則には個人の言動を縛る強い強制力があったとすると、その正当性を担保するために不可侵で絶対権力を有する神が創造され措定されたと考えられます。

 

 また、知性の発達した頃、自分たちとは異なる者、異者、ケモノ、そのなかでも自分たちには征服できない、時に恵みを与え時に命を奪う自然と呼ばれるケモノを畏れ敬い神と呼んでいたとも考えられます。このケモノだった神と強力な強制力をもつ神とが融合して、今日みられる一般的な神の概念を形成したのだと思います。ちなみに、神話で語られる神は平和的であれ支配的であれ、民族の交流により変容します。たとえば、A民族の神話の主神が、A民族がB民族によって支配されるようになったことで、A民族の主神がB民族の神話体系に組み込まれ、降格して主神ではなくなるといったようなことがおきています。このような神の生成過程は一考にすぎません。神の成立過程がどのようなものであったのかは定かではありませんが、多様な生成過程が考えられるということは確かでしょう。

 

 すべての宗教に共通する最大の特徴、この場合前提とも言えますが、それは信じるということです。なかでも神を信じるということが絶対条件です。そもそも「教」というのは、その名の通り「教え」のことです。宗教というのはその教えを守り、その教えを信じることであり、それにも増してその教えを授ける神を信じることです。

 

 これと対極にあるのが無神論です。無神論では神を信じていないので神の教えがありません。したがって、無神論は宗教ではなく無神教とは言えません。しかしだからといって無神論者はなにも信じていないということではありません。少なくとも神がいないということは信じています。また神がいないからといってなんの教えもないというわけでもありません。自分自身の考えを教えとすることや、先人の智慧や経験、歴史や慣習といったような、神ではない人や事象を教えとしている場合があります。このように考えると無神論も無神教と呼ばれうるものだと思えてきます。

 

 近代ヨーロッパでは、社会の変革や科学の発展、または、それらが先鋭化したことで浮き彫りとなった意味の不在などにより、特にインテリ若年層でニヒリズムが広まり、社会問題となりました。ロマン主義の後のニヒリズムはとりわけ衝撃が大きかったことと推察します。ちなみに、私が主義を聞かれたときには、決まって無信論と答えるようにしております。どのような無であったかは存じ上げませんが、原初が無であったと信じる者です。この原初を神と呼ぶのであれば、私は神を信じます。また、世界の内で、この世界・この宇宙をつくった知性をもつ人格神が私たちを創造したとも考えられ、なおかつそれを立証も反証もできませんので、私はこのような神を信じてはいませんが、否定はしませんし、できません。

 

 私たちを創造し支配している人格を持ったなにかを、私たちは一般に神と呼びますが、その神が現にいたとしても、その神も知性をもつ以上は私たちと同じ問いに立ちすくむことでしょう。このことの確かさは、世界が変わっても物理定数が変わるだけで、物理法則は普遍であることと同じくらいの確かさです。その問いとは、なぜ原初はないではなかったのかということです。このように想像すると、苦悩する神やディオニュソス的な神々の戯れる姿が浮かんできて、神に親近感がわきませんか。と不謹慎なことを想起してしまいます。

 

 ところで、神、とりわけ創造主について語るときには禁忌があります。それは創造主の創造主について問うことです。起源は創造主にあるのでそれを問うてはならないのです。しかし、これは創造主を中心・主体としているために起こる誤謬です。現代においても創造主が生き残る術があるとしたら、それは世界と同化することです。起源は創造主の一撃ではなく、創造主の初動・胎動だったのだとすればよいのです。

 

 この点については、古くから多くの宗教でもよくよく考えられてきました。たとえば、ユダヤ教ではキリストを預言者とし、イスラム教ではムハンマドを預言者として、神ヤハウェとは異なるものとして扱っています。また、キリスト教における神は、父と子と精霊の三位一体であり、子である救世主のキリストが神のすべてだとは言っていません。知性をもち神の意志を伝えるのは人、あるいは神の化身・分身・一部です。

 

 数ある宗教の神の起源を分類すると、創造主と自然現象の二つに大別されます。創造主は世界をつくったもの、そしてそのような神は今も世界を見守るものである場合が多く、自然現象は、自然現象を神そのものとして人格化したもの、そしてそのような神は多神教に多く世界そのものであり世界を形作るものでもある場合が多いです。どちらにしても起源を辿っていくと一に収束していきます。一神教と多神教の別に関係なく、世界と神とは同一です。なにかがあって、それがどうにかなって世界ができます。となると、ものに実体はありません。なぜならどうにかなったものがものであるからです。起源においては神という主語から生む・つくるという述語が導かれますが、つくるといった述語がつくられたものと主語化されてものとなります。私たちにおいてはそれを概念化や観念化、とりわけその顕著なものである言葉によってそれを行います。ただし起源における主語つまり神においても、それはなにかとしか言いようがないもので、本来的には到底主語とはなりえないものです。

 

 一般に現実世界や社会と呼ばれるものが幻想・脳内現象といったように、ある種のまやかしとして扱われることがあるのは、それが概念・言葉であるからです。私たちは述語を述語のままに扱うことができません。ただそこの述語に生きることができるだけで、それを知ることはできません。私たちが知ることができるのは、私たちの生み出した主語・概念・言葉だけです。そして社会は複数の主語の絡み合いです。人知を超えた出来事というのは、主語だけでは説明できないというだけのことであって、すべて起こったこととしてある事実です。人知からして主語です。しかして主語の実体は述語です。そして述語とは渾沌です。

 

 西洋では無が嫌われていましたので、原初に神や造物主が置かれました。もしかしたら逆で、原初に神や造物主を置いたために無が嫌われたのかもしれませんが。いずれにしろ、無も神も人から担わされた役割は同じで、名称が異なるだけです。ただ西洋と東洋の趣味の違いが表れているだけでしょう。

 

 松岡正剛は、西洋で無が嫌われ神が好かれるのは、砂漠地帯などの苛酷な環境下では中庸は混乱を招き、判断を鈍らせ命を危険にさらす恐れがあるからだと言います。また、座して沈思黙考するといった東洋的な形式が西洋で広まらなかったのも、森林地帯のように、砂漠地帯と比べて生存しやすい環境が西洋には少なかったからだとも言います。この論の正誤はわかりませんし、要因はこれだけではないと思うのですが、やはり環境というのが一番影響しているのでしょう。

 

 蛇足ではありますが、不足しがちだからこそ欲し、豊であるからこそ惜しまない、東洋と西洋の足し算の文化と引き算の文化という違いも、環境が大きな要因となったのだと思います。

 

 多神教の国が多い東洋では一元論的な無、一神教の国が多い西洋では二元論的な他という考えが大勢です。宗教では神が最高権力者、絶対存在です。したがって神以上の存在は存在しません。そこで多神教では神々をも包摂する背景が意識されます。主神・最高神はいますが、どの神が一番ということもなく。対して一神教では、絶対存在との対比となるので、対象・図が意識されます。多神教では全てが神の光に満たされているために一元的になり、一神教では一つの強力な光源があるために多元的になります。

 

 一神教において世界は神に包摂されています。多神教では、神のいないところはなく、世界は神々により構成されています。つまり違いは、本質的には言葉だけです。

 

 一神教では神が世界(神=世界、神→世界)といったように、神が世界を創造し統治しています。しかし多神教では世界が神(世界=神、世界→神)といったように、神は自然と結びつき、一体となっています。汎神論は、世界の隈なくが神の一部であると解釈すれば一神教的ですが、世界の隈なくで神であると解釈すれば多神教的です。ほんの一字、「が」と「で」の違いですが、それだけで東洋的か西洋的か、正統か異端かが分かれる分岐点となるので、宗教という観点からすると大きな違いなのだと思います。

 

 世界がなければなにもなく、なにもなければ世界もありません。したがって、あるということと世界とは同じことです。同じように信者にとっては、神がいなければ世界もなく、世界がないのなら神もいないので、世界と神とは同じことです。神を世界の上に君臨させる信者・教理もありますが、それは神が世界の上に君臨しているようにみえて、その実、神が世界となっているので、神と世界とを同一視しています。

 

 一の変動を神と呼ぶことができます。ただし、一の変動はただあるだけなので知性をもちません。しかしだからといって知性をもつ神を否定 しているわけではありません。一の変動の内で知性をもち、意志をもった神が人をつくったということもありえるからです。知性をもつ神は私たちと同じ問いに 立ちすくむはずです。つまり「なぜあるのか。なぜないのではないのか。」という問いに。