あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

存在

 現在は実体ではなくあり方だという直感から、あるということをより一般的な存在という語で表すとすると、存在は存在を問うことではなく、存在のあり方を問うことなのではないかと感じています。というのも、一において存在するのは一、つまり現在だけであって、変動そのものの現在の存在というのは、実体のあるなにかを捉えることではなく、一の変動、つまり存在のあり方が存在なのではないかと思うからです。まず存在があってあり方が立ち上がってくるのではなく、あり方が存在を立ち上がらせているのではないかと思うのです。

 

 ハイデガーやサルトルなど多くの人が、存在そのものとは別様のあり方をするなにかを表す語として現存在、即自存在や対自存在などの語を創出してきました。これは存在を解明するために存在との関係を表す語が必要だったからです。

 

 ところで、エネルギーや運動という語がありますが、この語の意味するところは、物にどれほどの速さを加えるか、どれくらい物を移動させるか、どれほどの仕事をおこなったかといった、物、つまりある範囲に限定して閉じた系の固着したなにか、これを一般に存在と呼ぶのだと思うのですが、この存在の位置や形などの変化をもとにあらわされたなにかのことです。エネルギーや運動がこのようなものであるとすると、この物や存在といわれるなにかは、いわゆる硬質ななにかではなく、変化するなにかだと思うのです。アインシュタインのE=mc2ではエネルギーと質量の等価性が説かれており、質量は硬質な物という存在ではなくド・ブロイの物質波や超弦理論で説かれている波のような軟質ななにか、つまり変化そのものなのではないかと思うのです。とすると、存在という語は、本来的には現在にのみ適用され、一にのみ備わるもので、人に限らず物も含めた普段一般に呼び慣わされている存在というのは、何かではなく、どのようにあるかということなのではないだろうかという直感がはたらくわけです。

 

 また、数学・記号・言語は局所の変動・運動の記述であって、存在の記述ではないのではないでしょうか。存在・記号・概念・言語を用いて存在を表すことはできないのではないでしょうか。あるいは記号を用いることで自己同一・同義反復に陥り自明のものと前提してしまっているのではないでしょうか。

 

 たとえば、あなたはなにものかと問われたとき、「私は私」「私は人間」と答えるかもしれませんが、それはあり方であって、人間そのものではありません。そもそも人間そのものとはなんでしょうか。一において、それは意味をなしません。

 

 一元論と二元論、観念論と実存主義、唯物論と唯識論など、これらは対立する考えであると思われているのですが、一においては名称あるいは視点・パースペクトが異なるだけです。宇宙を表す語にcosmosやuniverseなどの調和、統一、秩序といった意味をもつ語があり、その対義語に渾沌chaosなどの複雑、無秩序といった意味をもつ語がありますが、これもパースペクトが異なるだけで、一においては統一も無秩序もないのではないでしょうか。つまり、調和でない一があるでしょうか。無秩序な一があるでしょうか。観念や意志などの物質的でないと感じられるものを存在というのか、実存や物自体などの今・ここになにかがあるという感じを存在というのか、といったような視点の違いではないでしょうか。

 

 ここで、さらに直感するところがあるのですが、それは、時間はエネルギーなどの移動・経緯・遷移といったようなものではなく、エネルギーと等価か、エネルギーの一種のようなものなのではないかということです。ある時点のエネルギーを求めるとき、多くの方程式で時間tが関わっていますが、この時間は、ある種空間化されたもののように扱われているように感じるからです。ある時点の物体のエネルギーには、そこに至るまでの過程が含まれた、通過してきた空間を積分したような、または、対象があまりにも大きいのですが、ファインマンの経路積分のようなものだと感じるのです。このように考えると、時間も速さのように、多分に空間に依拠しているように見え、時間も速さもエネルギーの異なる一面・表記なのではないかと見えます。また、エネルギーが時間に比例して増減するのは、物質が移動あるいは、一の内で関与した限定的な空間の範囲が増減するからではないでしょうか。言い換えれば、経路積分の変域、初期値や始終点などの変化なのではないかということです。

 

 思考動物の誕生以前、存在するのは物質だけでした。しかし、思考、つまり観念化が生じると、非物質である想像物も存在するようになりました。人が生物の内でも特異であるのは観念化の機能を有することです。観念は私という複雑さの内に観念という複雑さをもつということでもあります。つまり、私という存在の内に観念という外をもつということです。また、私というのも観念なので、私というのは本質的に外になります。このような私の内の外の私が自我として認識されます。自我は私の内の観念の集積によって成り立っているのではないでしょうか。この点に関しては、ブラフマン-アートマンの関係を示す不二一元論や梵我一如、キリスト教の三位一体、マルティン・ブーバーの我と汝、アニミズムの中でも特にネイティブ・アメリカンのものなどに触れたことがある方にとっては、想像しやすいかもしれませんね。

 

 物質にも非物質にも存在という場が与えられますが、これは複雑さということにおいて同一だからです。これはまた存在できないものはないということも示しています。現に今、存在しないものは、なにが存在しないかを思考されたとき、その複雑さが生じるため存在へと転化します。従って、現在において存在できないものはありません。すべて存在します。つまり、存在とは事実です。存在は現在においてのみ存在し、現在においてのみ事実です。

 

 存在の問題は、なにがあるか、ではなく、どのようにあるかということです。なぜなら一においては一しかないからです。ただし、世界についての言及は自己言及から逃れられないので証明不可能です。証明はできませんが、それは事実です。