あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

メイジーニアス:2024年搾取問題

人口ボーナスの惰性が法や慣習の硬直化をみせ搾取構造を保存してきました。

超少子高齢化社会の到来により人口ボーナスが人口オーナスへと転調して久しくも有効な手段を効することができず旧態依然とした方法を進めてきたゆがみが矯正されることを示す1つのランドマーク、エポックメイキング的な出来事が2024年問題。

 

すべてではないにしろ大きく寄与した人口ボーナスによる成功体験に取りつかれて、経済の不調も賃金を抑えて労働時間を延ばすことで乗り切ろうとし、それがいつしか、それも間もなく手段から目的化して搾取構造が黙認されてきました。

 

企業も政府も仕方がない、それが当然だと問題視することも少なく常態化し、それを変革しようとの兆しがみえると抑圧さえしてきました。

労働者の時間やお金を奪うことを搾取と言わずしてなんというでしょう。

 

この剛情な搾取体制がゆらぎ始めたのは企業や政府がこれまでの行いを反省して改革に一歩踏み出したからではなく、これまでの体制を維持することができないほどに人口オーナス圧力が高まったからに過ぎません。

 

事務職もそうですがドライバー職というのはただ座っているだけの単調作業とまではいわないまでも座ってばかりいるラクで創造性のない仕事だとあなどられているフシがあるようにおもわれます。だから低賃金長時間労働がながらく放置されてきたのでしょう。

反対に建設業や医師は座ってばかりはいられない高度で創造性の求められる仕事ではあるけれどそれに見合った対価が得られているとの偏見をもたれている節があるようにおもわれます。インフラや疾病など命や生活に関わる職にあるのだから使命感を持って長時間労働を厭うなとながらく放置されてきたのでしょう。

 

しかしそうもいっていられないほどに生産年齢人口が減ってしまってにっちもさっちもいかず法施行までに5年の猶予があったにも関わらず2024年問題が急に降って湧いたかのようなここ数か月の狂奔。

 

想像してみてください。もし仮に今、これほどまでに少子高齢化も人口減少化も進んでいなかったとしたら、果たしてこれほどまでに変革の兆しが見られたでしょうか。きっとこれまでの日本のやり方は間違っていなかったのだ、日本はこの体制・慣習があったがためにうまくやってこれたのだと未だに過去の幻想的な成功体験の亡霊に取りつかれていたことでしょう。

少子高齢化と人口減少が起きなかった日本において、それでも変わらない日本とそれでも変わる日本、どちらの日本が想像されますか。

 

昭和の種々の争議や闘争の失敗が現在にまで続く体制・慣習の硬直化に大きく影響している出来事のひとつでしょう。

あれほどの大きなうねりであっても変わらなかったという諦観と厭世観。状況によっては不条理も不合理も黙して飲み込む忍従姿勢とそれを当然視することを暗に強要する社会圧力。

 

日本には「察する」「忖度」といった「一事が万事」的な風潮がありますが、経緯や思惑がどうあろうといったん決まってしまうと慣習も法律も憲法でさえ時代にそぐわなくなろうと欠陥が見つかろうと堅持されてしまうという「一時が万時」な風潮も根強く残っています。

冤罪事件の結審もあることながら再審に至るまでが法外に長いこともそのひとつです。なかでも袴田事件については当事者および関係者が亡くなるのを待っているかのような不誠実極まりない所業。

それに対して大川原化工機の提訴は勝訴と結審し画期となってほしいところです。その余波は企業事件にとどまらないはずだから。そう願いたい。

 

国内に改善基調が生じるのはたいてい決まって外圧によるものです。自浄作用をもつ組織は国内には実に少ない。

 

日本が世界的にも(領土の広さではなく)軍事や経済において大国であった頃を振り返ってみると、(縄文、)戦国、高度経済成長期(団塊の世代)と人口の多かった時期と符合します。人口だけが成長因子ではありませんが大きな要因のひとつです。

 

政治家のいう単なる建前の「抜本的改革」ではなく真の意味での抜本的な改革が起きるのは想定されていようといまいと外圧の訪れた後です。

オイルショックにコロナショック、定住革命からAI革命。黒船が来ることは一部のひとには予期されていましたし機械に既存の仕事が奪われる(というよりも代替される)ことも時間の問題というだけで明らかなことでした。超少子高齢化社会の到来や先端技術分野から離されてゆくことも何十年も前から自明の理でした。生産性の低さも過労死がkaroshiになる前からわかっていたことです。台風などの災害発生時に日常を送る必要はなく出勤などしない方がよいことはコロナ蔓延前から明白であり可能でもあるのにまだそうはなっていない。

日本が動くのは事故の後。事後の後にもうどうにもならないと追い込まれて手遅れとなった後に自発的にではなくやむなく動かされるという特徴をもっています。

 

失言迷言オンパレードの静岡県知事川勝平太さんが数十年前にひとつだけいいことを唱えています。それが「富国有徳」。徳をもって国を富ますという意味なのでしょうが、さすがというのかその筋道、有徳がいかにして富国につながるのかは一切説明されていない、ただ字面だけ。そのせいか富国が徳をもたらすといった金持ち喧嘩せず的な解釈を呼び込んでしまうし、実社会もその傾向をみせています。そのことはおいておいて、字面ではない「富国有徳」の道筋を見出すことは有益であり今の日本に必要な最善手なのではないかとおもいます。

 

2024年問題とは生産年齢人口の減少により起こる問題でも、ましてや労働時間に上限が設けられることでもなく、搾取構造の是正にともなう日本社会の甦生にあてられるべき言葉であるとおもいます。

メディアで「搾取」と公言されないことが不可解でならない。

自民党の正しい斬り方

自民党、つまり自由民主党。

これを自由-民主-党と切って読んでいるから本質を捉えそこねるのです。

このように読んでしまうとさも市民に重きをおいた人民のための政党かのような印象を抱いてしまいます。

 

しかしそうではない。

正しくは自由民-主-党と区切るのが本来の読み方です。

このように読めば党名が偽りを申しているのではなく、本音と建前的な美辞麗句を並べているのでもなく、ちゃんと端から公明正大嘘偽りなく堂々とその姿勢を明言していることがわかるのです。

 

つまりは自由民が主(あるじ)だと宣言している党であるということが。

ここで言われる”自由民”のなかに我々は一般人は含まれません。

自由民は日本国の市民権を持つものではなく「国会議員のうち自民党に所属する者のうち党三役あるいはそれに類する権力を持つもの」というごく限られた少数人のことを指します。

このことは今日浮上した裏金問題に限らず、オリンピックや万博など公共事業費のあとから増額、震災復興費の転用などなど、悪名有名なロッキード事件や森加計問題などの固有名をあげるまでもなく様々な証左や裏付けがなされています。

 

これまではその権勢によりメディアに圧力をかけたり統計データの仕様を操作したりスケープゴートをたてるなどして圧殺黙殺偽装自殺などの手法を駆使してきました。

今回この体勢が瓦解しはじめた発端は間違いなく憲政史上最長政権を握った安倍さんの死、いわゆる安倍晋三銃撃事件。

裏金問題を告発したのは上脇さんでありそれを報じたしんぶん赤旗であると報じられていますが、上脇さんは以前から裏金問題以外にも告発されていますし、赤旗は赤いですし…果たして銃撃事件以前であったらこれほどの問題となったでしょうか。

今日の裏金問題は昨日今日はじまったものではなく、何十年も前から横行していたことでメディアも何も知らなかったということはないでしょう。

これにはジャニーズ性加害問題にも通じる構図がみえます。

 

うねる空気

銃撃事件後、自民党と統一教会とのつながり(このずぶずぶの関係も何十年も前からはじまっていたけれど政治に黙殺され続けてきた)が公となり自民党のお金の流れに目が注がれて裏金問題の報道へと至る。

時代の流れ・雰囲気というものもあります。

SDGs然り、エコロジーや過剰開発への疑念、ジェンダーギャップや富の格差を是正しようという気運、働き方改革に少子高齢化問題、AIにブロックチェーン、インフレにデフレにバブル発生、コロナショックにワクチン疑惑、銃撃事件に統一教会、当事者からすれば事件や問題に大小はないけれど、その刻その時代の小さくとも長く続く問題やインパクトのある大事件、あらゆるものが大きくも小さくも影響しあってうねりとなって大波の一波となって顕現したのが今回の裏金問題。

地下の歪は長い年月を経ることでエネルギーが蓄積されて大地震となります。

 

ロウアーロイヤー

自民党のお金への汚さは長い年月を経て培われた後天的なものかもしれませんし生まれ持った先天的ものなのかもしれません。

いずれにしても体質。

それも何十年もの間ともに歩んできた体質。

そうやすやすとは体質改善は見込めないでしょう。

これまでも、また今も党内から体質を変えようと口先だけのひともいましたし粉骨したひともいましたが、やはり変わらなかった。

政治家にだけ問題があるわけではないでしょう。

一部の高級官僚にも問題があるでしょう。

「宮藤さんに言ってもしょうがないんですけど」の“法律事務所事務員の愚痴“を聞くと(※番組内でも言われていますがすべての法律家ではなく)アッパーレベルの人たちの生態があまりにロウアーなことに不安しか覚えません(この愚痴を聞いていたときアダム・スミスの国富論と道徳感情論がずっと念頭に浮かんでいました)。

 

令和の党質制限

体質改善の見込めない自民党は解党が妥当ではないかとおもいます。

それでは国家運営が立ち行かなくなり政情不安、国家混乱が起き外圧も強まり亡国の危機も招くだろうという懸念は至極当然もっともです。

野党に政権運営能力が備わっていればよいのですが、自民一強体制があまりにも長すぎて野党を育てられなかった日本においては、自民解党後に元自民党議員の協力を得て日本全体で奮起してなんとか元野党政権でやっていく方がいいのではないかとおもいます。

ただこれではそのうち元自民党体質を踏襲しかねないのでその対策と管理は怠らずにしないとね。

 

誰の絵?

それにしても今回のこの裏金問題は誰が絵を描いたのでしょう?

自然発生?…とは考えづらい。

抑圧されていたメディアの反転攻勢?…というのもなくはないでしょうけれど、それを利用した…

安倍派を一掃したい他派の自分の肉も少なからず切られるけれど骨を断つための算段か他党の切り札?…にしては政界への波紋が大きすぎるし、

投資家かフィクサーの策謀?…フランス料理風「世直しと利潤追求を兼ねて」というコースに仕立てるには調査内偵仕掛に調理とじっくりコトコト手間がかかりすぎる。

事の始まり・傷心

ひとの生涯は生まれることで始まるが、物語はひとが害されることで始まる。

 

映画や小説、アニメ、その多くはひとの死を中心として、またはそれを発端として物語が動き出す。昨今隆盛を極めている異世界ものなどその最たるもので、主人公が死ぬところから話が始まる。主人公が死ななければお話にならないのである。

 

こんなことをふと思ったのは、ここのところあまり読んでこなかった小説(物語)をいくつか読んでいて、たまたまなのか必然に突き当たったのか「しょっちゅうひとが死ぬなぁ…あっほらまた死んだ」「また殺し屋が出てきたよ。殺し屋ってそんな一般的なものなの?市民権得てるんだねぇ」なものが続き、振り返ってみると火サス(火曜サスペンス劇場)・2時間ドラマ、名探偵ポアロにコナン、極道・任侠、時代劇に大河ドラマ、ウルトラマンもゴジラも平家物語も古事記も、死ぬわ死ぬわまた死ぬわ。ばったばったとひとが死んでゆく。どれもこれもひとの死を巡ってお話が展開されてゆく、死にまでは至らなくとも”傷心”が物語のはじまりなのだということに今更ながら遅咲きながら気がついた。

ひとはひとの「死」が好きなんだ。ひとはひとの「死」に関心が高い、実は無自覚不覚にも興味津々なのだ老若男女問わず。

 

死を巡るというのは生を巡るということと同義、というか表裏一体。だからひとはひとの「生」にも関心があるのだ。ひとはひとの「生死」に惹かれている生き物なのだ。